本格的な大和郡山城の築城は、天正13年(1585)9月に豊臣秀長が入部したことに始まります。紀州根来寺の大門を郡山に運んで城門とし、春日大社の水谷川から大石を切り出し、寺院の礎石や庭石、石地蔵などが持ち込まれて石垣に用いられました。

郡山城天守台から城下町方面をのぞむ。順慶が築城した天守の位置は分かっていない

郡山城天守台から城下町方面をのぞむ。順慶が築城した天守の位置は分かっていない

本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れる

天正10年(1582)、武田勝頼征討の活躍により駿河国を拝領した徳川家康は、謝礼として安土へ参上します。織田信長の命で饗応役を任された明智光秀は、贅を尽くした宴を準備するものの突然解任されてしまい、西国出陣を命じられて坂本城に戻ることになります。

坂本城から亀山城に移動した光秀は、同年6月1日、軍勢1万3000を引き連れて亀山城を出発し、本能寺へと兵を進めます。翌2日には光秀の軍勢は山陰道・老ノ坂を越えて沓掛に到着し、未明の桂川畔で光秀は信長打倒の意思を示し、「敵は本能寺にあり」の号令を発したといわれています。光秀は事前に、信長を討つことを知った家来が逃げた場合には、その家来を討つように伝えていましたが、誰一人として光秀軍から離れなかったそうです。

信長・信忠父子を討つものの、その後の光秀に誤算が続きます。越前以来の仲で親戚でもある細川藤孝は味方せずに出家。光秀の寄騎大名である筒井順慶も従いませんでした。頼りにしていた武将たちが味方しない状況のなか、中国大返しによる想定外のスピードで羽柴秀吉が畿内へと戻ってきます。

光秀と秀吉は、油座で知られる山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の地で激突。山崎合戦は「天王山」の名が有名ですが、実際には天王山の東側の湿地帯で戦いが行われ、小泉川(現在の大山崎ジャンクション周辺)沿いが激戦地となりました。

天王山の東側に展開した光秀軍が、秀吉軍の羽柴秀長や高山右近、中川清秀らの諸隊に攻撃。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る、秀吉軍を各個撃破する作戦でした。

ここでまたも光秀に誤算が生じます。戦地は沼地のため行動が制約され、精鋭揃いの光秀軍の猛攻をもってしても、秀吉軍を崩せませんでした。その間に淀川沿いでは秀吉軍の諸隊が進攻し、円明寺川の東側にも上陸。川沿いの光秀軍は手薄で、たちまち苦戦に陥りました。

山崎合戦の後、羽柴秀吉は天王山に築かれた山崎城を改修した

山崎合戦の後、羽柴秀吉は天王山に築かれた山崎城を改修した

天王山に立つ「山崎合戦之地」の石碑。羽柴軍が千成瓢箪の旗印を掲げた旗立松(はたたてまつ)付近

天王山に立つ「山崎合戦之地」の石碑。羽柴軍が千成瓢箪の旗印を掲げた旗立松(はたたてまつ)付近

光秀が最期に寄った勝龍寺城

山崎の戦いで敗退した明智光秀は、勝龍寺城に退きました。勝龍寺城は、南北朝時代に京へ進出する南朝方に備えて細川頼春が築いたとされ、西国街道と久我畷を同時に押さえられる交通の要所。戦国時代になると、織田信長から勝龍寺城を与えられた細川幽斎が、元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ城に改修しました。

まもなく勝竜寺城は羽柴秀吉軍に包囲されてしまいます。光秀は夜を待って脱出し、再起をかけて坂本城をめざすものの、山科盆地の小栗栖で最期を遂げ、慣れ親しんだ琵琶湖を二度と見ることはありませんでした。

勝龍寺城は光秀の娘・玉(ガラシャ夫人)が藤孝の子・忠興のもとに嫁いだ城でもある

勝龍寺城は光秀の娘・玉(ガラシャ夫人)が藤孝の子・忠興のもとに嫁いだ城でもある

※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。

写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。

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