その場において「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん(推任)候て 然るべく候よし申され候」と、太政大臣・関白・将軍という三職のどれかを推任するという、前代未聞というべき朝廷側の意志が示されたのである。朝廷としても、天下人信長を官職によって繋ぎ止めておく必要があったとみられる。
これをうけて、5月4日の安土城における正式の対面の場において、晴豊は「関東討ちはたされ珎重に候の間、将軍ニなさるべきよし」と答弁している。
勅使派遣の意向を問う信長に対して、源頼朝の先例を引いて将軍推任のためにうかがったと回答したことは、きわめて重要である。
従来の研究では、三職のうち信長にどれかを選択させた「三職推任」とみてきたが、そのような理解は正確ではない。確かに打ち合わせ協議の段階ではそうだったが、それをもとに朝廷が示した結果が重要で、「将軍職推任」と理解せねばなるまい。
かつて天正6年4月における右大臣兼右近衛大将の辞官の理由として、信長は「万国安寧・四海平均の時」に、あらためて武家の「棟梁」に任官すると明言しているが(『兼見卿記』)、この表現からは源頼朝の先蹤(せんしょう)を倣ったものとみられる。
つまり、かねがね関東を討ち果たすという念願を実現した段階で、頼朝のように将軍に任官する意図があったのは確実であろう。既に天正3年11月に、信長は右近衛大将に任官していた。これは、頼朝が将軍に任官する前職だったことを知ってのことだろう。
東国平定を実現した天正10年5月の段階で、将軍職推任を受けるべく、西国出陣を前に上洛したとみるのが自然なのである。それには、きわめて実利的な効果があった。敵対する将軍足利義昭と彼を推戴する毛利氏や長宗我部氏の正統性が瓦解するからである。そのうえで、天下統一戦に臨むという完璧なシナリオができていたのである。
このシナリオの詳細は、信長サイドで勝手に立案したものというよりも、推任した朝廷側からその後の儀式も含めて持ちかけたのではないだろうか。それが、この交渉を進めてきた誠仁親王グループである。その中枢には、光秀と親しい近衛前久があった。関係史料からは、変当日の6月2日に信長が家康らを招いて儀式をする予定だったことがわかる。それが将軍推任に関係するものならば、信長の上洛は朝廷主導とみるべきではなかろうか。
反信長勢力からすれば、信長を無防備な状況で京都におびき出すことに、まんまと成功したとみてよい。しかも、かねて予定されていた四国出陣ばかりか、中国出陣までが重なり、信長周辺に大軍がいないという、またとないお膳立てが実現したのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。