文/砂原浩太朗(小説家)
近年、女性がらみの不祥事で糾弾される芸能人が目につく。窮屈な世の中になったと嘆く声もあがるが、むかしは女色が野放しだったというわけでもない。武士といえど例外ではなく、たとえば江戸時代には、色に迷って一身を棒に振った大名もいたのだった。
譜代大名・井上家の光と影
井上家と聞いてすぐにピンと来る方はすくないだろうが、三河(愛知県)出身の譜代大名である。当初、大身ではなかったが、正就(まさなり。1577~1628)が2代将軍・秀忠の側近として重用され、大坂の陣に功ありとして1万石の大名に取り立てられた。それから10年も経たぬ1622年には遠江(静岡県)の横須賀(軍港の横須賀とは別)に封じられる。5万石をあたえられたうえ、年寄(のちの老中)に列する身となった。この年は、秀忠が隠居し、3代家光が就任する前年にあたる。おのれが実権を持っているうちに出世させておこうという意図と見てよいだろう。むろん、それなりの実力もそなえてはいたろうが、泰平の世となってからの大幅な加増である。秀忠個人の好意がないとは考えにくい。齢も近く(正就が2歳上)、気のおけぬ間柄だったのではないか。
これだけならよくある出世譚だが、正就の運命は思いがけない変転をたどる。この6年後、江戸城内で刺殺されてしまうのだ。相手は目付(監察)の役にある武士で、縁組をめぐるトラブルが原因とされている。不幸なことに、これが江戸城内での刃傷第1号となった。
転封つづきの家系
刃傷によって井上家が咎められることはなく、その後も大坂城代や京都所司代、老中などの要職についた当主を輩出する。そのかわりというわけでもなかろうが、江戸期を通じて転封(領地替え)を繰りかえすこととなった。大名にとって、転封は莫大な費用を要する一大事業。井上家の場合、それが幕末までに十数回というから同情に値する。横須賀に封じられてから130年ほどのあいだに、現代の府県名で記せば、茨城、岐阜、京都、福島などを転々とした(この間、同地域に戻ることも)。宝暦8(1758)年には、浜松(静岡県)に居城をさだめ、ようやく落ち着いたかにみえたものの、ここで本稿の主人公ともいうべき正甫(まさもと。1775~1858)が登場する。
彼は父が若くして世を去ったため、天明6(1786)年、12歳で当主となった。父とおなじ奏者番(そうじゃばん。取次ぎ)のお役をたまわり、大過なく藩主の座をつとめる。が、40もすぎての分別ざかりとなって、とんでもない不祥事を引きおこしてしまう。
色でしくじりゃ井上様よ
さる大名の屋敷に招待された正甫は、ご自慢の庭園を散策する。ところは現代の新宿御苑あたり、広大な庭がそのまま近隣の村へつながっていたから、野歩きのような解放感があったことだろう。
事件はここで起こった。散策中、農婦と出会った正甫は、あろうことか手籠めにしようと襲いかかったのである。これ自体ひどい話だが、不始末はさらにつづく。そこに駆けつけた亭主が大名とは知らず正甫を打ち据え、どうにか供の者が取り押さえたのだった。
領内なら揉み消せたかもしれないが、なにしろ将軍さまのお膝元・江戸での事件である。好き放題にしてはまずいというくらい分かりそうなものだが、少年の身で殿さまとなったため、みずからを律する能力に欠けていたのかもしれない。酒も過ごしていたとはいえ、家臣もさぞ青くなったことだろう。金品を渡して示談にしたが、当日はほかにも何人か大名が招かれていた。一説には、夫婦を浜松へ引き取ってまで口止めしようとしたらしいが、噂が広まるのはとどめようもない。
たちまち江戸中の知るところとなり、幕府としても捨ておけなくなった。折しも、のちに天保の改革を主導する水野忠邦が、領地である唐津(佐賀県)からの転封を願いでる。唐津の領主は長崎の防衛を課せられる定めで、そのかわり幕閣の主要ポストにつけないこととなっていた。このため、幕政改革の志をいだく忠邦が転封を請うたのである。
この願いが容れられ水野家は浜松へ、押しだされた井上家は奥州の棚倉(福島県)へ領地替えとなった。文化14(1817)年のことである。温暖な気候にめぐまれ、幕府の始祖・家康が居城ともしていた浜松からの移動であり、懲罰的な意味合いは明らかだった。江戸っ子のあいだでも評判になったらしく、次のような唄がはやることとなる。
色でしくじりゃ井上様よ やるぞ奥州の棚倉へ
生き残ったのは…
話はこれだけで終わらない。家臣に顔向けできぬと思ったのか、たんに行きたくなかったのか、正甫は病と称して棚倉へおもむかず、3年後に隠居。何とそののち40年近くを生き、安政5(1858)年、84歳で没した(81歳説も)。因縁あさからぬ水野忠邦は改革が頓挫して失脚・転封の憂き目を見、この7年まえに58歳でみまかっている。ちなみに、水野の失脚にともない、井上家もすでに浜松へもどっていた。これは1845年のことだから、藩主の不行跡で失った故地を30年近くかけて取り戻したかたちになる。
正甫本人は自業自得として、家臣たちの苦衷は察するにあまりある。それでいて、これだけの騒ぎをおこした当人が幕末まで長らえているのだから、一連の騒動は何だったのかと索漠たる心もちに見舞われてしまう。が、この理不尽さもまた世の一面なのだろう。身の不始末が当人にとどまらず、まわりの人間まで巻き込んでしまうところも、古今共通というほかない。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。