「故郷、増毛(ましけ)の海が僕の味覚を育ててくれた」
北海道の漁村に生まれ育った少年は、15歳で料理人になる決意をする。以来ひと筋に45年、世界の一流シェフに名を連ねるまでの波瀾万丈を語る。
←みくに・きよみ 昭和29年、北海道増毛町生まれ。日本の一流ホテルで修業後、駐スイス日本大使館料理長。その後、ヨーロッパで修業を重ねて帰国。30歳で『オテル・ドゥ・ミクニ』をオープンする。最近は食育やスローフードの普及にも力を注いでいる。
今や“世界のミクニ”となったフランス料理シェフ、三國清三さんは少年時代をこう振り返る。
「家が貧しかったので、中学を出たら働くのが当たり前。料理人を選んだのは、食いっぱぐれがないというのが理由です」
故郷を離れ、札幌で住み込みで働きながら、夜は調理師専門学校に通う。ある日、夕食に見慣れぬ料理が出る。ハンバーグである。
「食べると肉汁がジュワーッと出てきて、ソースは甘酸っぱい。その瞬間、僕はハンバーグを作る料理人になろうと決心したんです」
三國少年の本格的な料理修業が始まった。札幌グランドホテルを経て、村上信夫という“料理の神様”がいる東京の帝国ホテルへ。だが、2年経っても鍋洗いの毎日。故郷を出てから初めて味わった挫折。増毛に帰って漁師にでもなるか−−。20歳の苦渋の覚悟だった。
そんなある日、村上料理長からスイスの日本大使館の料理長に推薦される。これが3年8か月の日本大使館勤務を含め、10年に及ぶヨーロッパ料理修業の始まりだ。
「その10年の間にも多くの“料理の神様”に出会いましたが、最も印象深いのが“厨房のダ・ヴィンチ”と呼ばれたアラン・シャペルさんです。『フランス料理のコピーじゃ駄目、日本人らしさを』といわれて腹が決まった。日本に帰ることにしたのです」
帰国後、日本人としてのオリジナル料理−−味噌や醬油、米を使った地産地消のフレンチを作る。当初は正統ではないと批判もされたが、世界がそれを認めてくれた。
振り返れば、少年時代に食べたウニやアワビ、ホヤといった増毛の海の恵みは、いわば味覚の英才教育であった。あの頃に覚えた素材の味が料理人としての原点であり、財産でもある。
6年後の東京五輪・パラリンピックでは、日本の食の魅力が詰まった料理で世界の人たちをもてなしたい。シェフの挑戦は続く。
←3歳の頃、増毛の海岸で。この日本海の幸、ホヤやウニなどが三國さんの味覚を育てた。
←ヨーロッパで最初に出会った料理の神様、ジラルデ氏は元サッカー選手。スタッフでサッカーチームを作り、三國さん(前列右)も汗を流した。
←トロワグロ兄弟と一緒に。左がソースの神様といわれるジャン氏で、ソースの真髄を学んだ。右が弟のピエール氏。
●師・村上信夫料理長との約束やヨーロッパの料理の神様、食育など、こちらでご紹介しきれていない興味深い話は「ワタシの、センタク。」のウェブサイトで公開中です。
ワタシの、センタク。
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