文 /小林幸子
小林幸子の「幸」を招くルール
ファン歴50年以上の方はもとより、若者やネットユーザーからも「ラスボス」と称され、幅広い層に圧倒的な人気を持つ小林幸子さん。
小林さんの「今が楽しい、自分らしい人生」をおくるための秘訣とは?
齢を重ねるたび、元気と勇気、パワーを増し続ける、ラスボス流「言葉の魔法」を初披露!
ラスボス式「人の惹きつけ方」
知識やテクニックだけじゃない。大切なのは“志”が立派かどうか。次々と未知の世界の扉を開けて新たなことに挑む、その原動力はどこにあるのか。そして、進化を重ね続ける秘訣とは?
ルール09
「承認欲求」が強い時代だと言われます。SNSで皆、「いいね!」がほしいんだそうですね。そりゃ誰だって褒められたいでしょうが、「いいね!」を求めて何かをする、というのはどうなんでしょう?
そんなに他人のリアクションをすぐ求めなくても、きっと大丈夫。粘り強くがんばっていれば、必ず誰かが認めてくれるものです。
私の事務所独立後の初めてのシングル『雪椿』(作詞/星野哲郎、作曲/遠藤実)は、星野哲郎先生に頼み込んで詞を書いていただいた思い入れの強い曲です。おかげさまで80万枚の大ヒット曲となりました。
しばらく経ってから、星野先生にこう言われたんです。
「幸子な、僕はずっと以前から、小林幸子にはいつかいい演歌を書いてやろうと思ってたんだよ」
驚いて私は「なぜですか?」と聞きました。
「というのはね、『おもいで酒』が出る前、銀座で歌ってたでしょ」
デビューから15年。『おもいで酒』がヒットするまでの私は、何とか食べていくため、銀座のクラブなどで歌っていたのです。
「幸っちゃんが譜面を抱えて銀座の通りを走っていくのを、僕はよく目にしていた。今のはひょっとして、『ウソツキ鴎』でデビューした小林幸子じゃないか、ってね。
彼女はまだがんばっているんだな。
そう感慨深くなった。
それにしても幸っちゃんの走っている姿というのは、悲壮感がなかったね。何というか毅然として、ひたむきな感じがした。苦労しているだろうに、その苦労でちっとも荒んだところがない。むしろ爽やかだった。
“がんばれよ”と、後ろ姿に僕は何度も声をかけたものだよ。
いつか機会があったら、この子にはいい歌を書いてやらなきゃいけないな、そう思ったんだ」
ありがたい、お言葉でした。見てくれていた人がいた。そのことが何よりも嬉しかったのです。
「できません」と軽々しく言わない
あの当時は、とにかく「歌う」ことがすべてでした。
お店で、「この曲、歌える?」と聞かれたら、歌ったことがなくても「できます」と答えていました。
譜面を抱えて銀座を走っていたのはそういう理由で、ジャズでもシャンソンでも、英語の歌でも、何でも歌いました。この時の経験は、歌手・小林幸子にとって、非常にプラスになっています。
テレビ番組でオペラを歌ったこともありますし、ボカロもどんとこいですが、すぐに「できません」と言わないようにしてきたからこそ、今の成長した自分につながっていると思います。
かつての事務所騒動の時には、いろいろなことをマスコミに書き立てられ、さすがに心が折れそうになりました。
そんな時、さだ兄(さだまさし)は、こう言葉をかけてくれました。
「幸っちゃん、あのね、真実ってのはね、ひとつしかないんだよ。だから何があってもどんなことがあっても、それはいつかわかるから。真実はひとつだから。怖いこと、何もないから。だから何も言わなくていい。幸っちゃんは、いい歌をきちんと歌っていればいいだけだから」
「いいね!」がたくさん押されなくたって、たったひとりが認めてくれるなら、それでいい。
私はそう胸に秘め、今も一生懸命がんばっています。
一、軽々しく「できない」と言わないことが成長につながる
一、たくさんの「いいね!」よりひとりの踏み込んだ言葉
小林幸子(こばやしさちこ)
1953年、新潟県生まれ。64年、『ウソツキ鴎』で歌手デビュー。その後、長く低迷期が続いたが、79年、『おもいで酒』が200万枚を超える大ヒットとなり、日本レコード大賞最優秀歌唱賞をはじめ数々の賞を受賞。同年、NHK紅白歌合戦に初出場。以来、34回出場し、その「豪華衣装」が大晦日の風物詩と謳われる。近年は、若者やネットユーザーの間で、「ラスボス」と称されるようになり、ニコニコ動画への「ボカロ曲」の投稿やアニメ『ポケットモンスター』の主題歌を歌うなどして、“神曲”を連発している。
ラスボスの伝言
~小林幸子の「幸」を招く20のルール~