室町時代の豆腐田楽にルーツを持ち江戸時代にはファストフードとして庶民に親しまれてきた「おでん」。今も昔も暖簾をくぐると“だし”の香がふわり漂う――そんな酒場で気取らぬ一杯を。
「おでんの湯気が気持ちをほどけさせてくれる。人のやさしさが沁みるのよね」

祖父の代から通う池波志乃さん
父は十代目金原亭馬生、祖父は五代目古今亭志ん生という落語界の名門に生まれる。18歳の時『女ねずみ小僧』でデビューし、映画、舞台、テレビで活躍。故・中尾彬さんとの「おしどり夫婦」ぶりはつとに知られた。
東京・湯島におでんの名店がある。その名は『多古久(たこきゅう)』。創業は明治37年(1904)、濃口醬油のだしで仕上げた、東京のおでんの味を守る老舗である。
上野の演芸場に近く、高座が引けた落語家が立ち寄ることもある。俳優の池波志乃さんは、祖父の古今亭志ん生、父の金原亭馬生から3代続く店の常連だ。夫の故・中尾彬さんとは結婚前から通った思い出が染みついた店だ。
「カウンターで彬と喧嘩して私が泣いていると、ほかのお客さんが飲み物だけ持って店の外にそっと出ていくのよ。泣き止む頃にお客さんが引き戸を少し開けて“もういいかい?”と戻ってくるんです」

そんな昔話をする志乃さんに「志乃おばちゃん、今日は何にする?」と聞くのは、女将の宮崎和子さん(78歳)だ。
「私の子どもたちが小さい頃から“志乃おばちゃん”と呼んでいたので、私の方が年上なのに、ついそのまま(笑)」と鍋の様子をうかがいながら宮崎さんが話す。

志乃さんが頼んだおでんは、ちくわぶ、昆布と白滝。
「まずは3品ほど頼みます。東京ならではのちくわぶは、ほかの具材の味をすべて染み込ませ、おいしいところを独り占めしているんです。一番好きです」
酒は灘の「褒紋正宗(ほうもんまさむね)」を冷や(常温)でいただく。蔵元の白鷹が飲食店向けに卸す、キレよくすっきりした辛口である。
おでん鍋の前が特等席

だしは見た目は濃いが塩味はさほど強くなく、昆布と鰹節の旨みが口中に広がる。
女将の宮崎さんはこう語る。
「最近はお客さんの好みに合わせて、少し薄味になってきました。手前にあるのが大根とこんにゃく。よく煮えたほうがおいしいので、明日のために仕込んでいます。ぐつぐつ煮立たせないで、じっくり味を染み込ませていきます」
宮崎さんは鍋の前に陣取り、種(たね)の具合を見ながら注文に応える。志乃さんは、その様子を楽しそうに眺めている。
「おでん鍋の前が特等席。おねえちゃん(宮崎さん)がときどきだしを足したり、種を入れ替えたりするのをじっと見ているのが好きなんです。それと湯気。鍋から立ちのぼる湯気は、気持ちをほんわかとさせます。彬と喧嘩してもすぐに仲直りができたのは、おでんの湯気のおかげなのでしょう」

多古久
東京都台東区上野2-11-8
電話:03・3831・5088
営業時間:18時〜23時
定休日:月曜、火曜、年末年始
交通:東京メトロ千代田線湯島駅から徒歩約1分、銀座線上野広小路駅から徒歩約5分
※崎は正しくは「たつさき」
取材・文/宇野正樹 撮影/湯浅立志

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