
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続ドラマ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第1回では、追い出されるように東京帝国大学を辞任した小泉八雲と、その後任となった夏目漱石。そのいきさつや当時のふたりの心情を考察します。
文・矢島裕紀彦
留任運動まで起きた八雲の後釜に指名された漱石

はるか海を越え西洋から日本にやってきて、松江、熊本、東京で教壇に立つ一方、『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』)『東の国から』などの随筆や『怪談』をはじめとする再話文学を通して、日本文化とその魅力を広く海外に伝えたラフカディオ・ハーン、こと小泉八雲。江戸っ子として生まれ英文学を学び、松山、熊本、東京での教師生活やロンドン留学を経て、『吾輩は猫である』『坊っちやん』『こころ』『明暗』などを書いて日本を代表する文豪となった夏目金之助(漱石)。
ふたりの間には、揺れ動く近代日本の入口である「明治」という時代を生きた教育者、文学者として浅からぬ因縁があった。
世間的にそれがもっとも表面化したのは、明治36年(1903)の春であろう。
八雲はそれより7年前の明治29年(1896)9月から東京帝国大学(現・東京大学)の英文学科で講師を務めていた。ところが、この年(明治36年)の1月、突然、大学側から3月31日の期間満了をもって契約を更新せず解職する旨を知らせる「解任通知」が届いた。八雲はその授業内容と人柄から学生たちにとても人気があり、大々的な留任運動まで巻き起こった。だが、事態は変わることなく、八雲は辞任。
その後釜として英文科講師に就任したのが、ロンドン留学から帰国したばかりの夏目漱石だったのである。
漱石はもともと、熊本の第五高等学校の英語教師(教授)の職にあるとき、文部省派遣の給費留学生として英国ロンドンへ赴いた。帰国後は五高に復職するのが、普通のあり方だった。漱石本人が、帰国後の東京転任を望んでいたのは確かなことだ。古くからの友人で、当時、東京の第一高等学校の校長を務めていた狩野亨吉らに宛ててロンドンから手紙を書き、《僕はもう熊本へ帰るのは御免蒙りたい 帰つたら第一で使つてくれないかね》などと頼んでいた。
その意向を受け、友人たちは関係方面へ働きかけてみたが、熊本五高も簡単には漱石を手離そうとしない。一高と五高の綱引きのような構図となった。
そんな折に浮上したのが、一高と東京帝大の兼務という話だったらしい。一高と帝大からの二本立ての要請とすることで、停滞気味だった漱石の東京転任話が進展していく。
ちょうどこの頃、国全体でお雇い外国人削減政策を進めている時期でもあった。東京帝大における八雲は、週12時間の講義で月給450円(年俸にすると5400円)という破格の高給で雇われていた(ちなみに漱石の五高の月給は100円)。
八雲を東京帝大へ招聘した学長の外山正一が亡くなって、新しい学長(井上哲次郎)に変わっていたことも、八雲の契約更新に影響を及ぼしていたのかもしれない。外山は明治33年(1900)3月8日に逝去したが、その葬儀には、普段は会合などへ滅多に顔を見せない八雲が進んで列席した。八雲招聘に当たって熱意と誠意のこもった対応をした外山の人物と心意気に、八雲自身、深く感じるところがあったのである。
学生たちの留任運動のあと、大学側からは八雲に対し、解任でなく、講義時間と俸給を減らし日本人講師と分業体制にする折衷案も出されたが、折り合いがつかなかった。八雲夫人のセツ(節子)の回想によれば、折衷案の話し合いのため小泉邸を訪れた井上哲次郎との面談のあと、八雲はひどく怒っていたという。
井上学長が来られて会談があつてから、良人(おっと)は憤って断然拒絶しました。井上学長の申条(もうしじょう)が良人に甚しく不快を与へたのです。「井上めづらしいひけふ者です。自分はよいです。然し自分のうしろに男ありますといふのです」といふて賤(いや)しんでゐました。留任を頼みに来た井上博士は反(かえ)つて留任の障害になつたのです。(『思ひ出の記』草稿)
井上が何を口にしたのか不明だが、八雲招聘の細かな経緯や八雲の性格をよく知らずに、不用意な発言をしてしまったのだろう。
八雲としてはむしろ、長年の大学への貢献からして、自身は長期休暇を取得する権利があると考えていた。欧米のジャーナリズムで文名を高めていた八雲のもとには、このとき、米国のコーネル大学から日本文化についての連続講演の依頼がきていた。それを引き受けながら、1年ほど休暇をもらって米国へ帰りたいと思っていた。その間に、長男の一雄をアメリカ東部の寄宿学校に入れて西洋式の教育を受けさせる基盤を整えたいとの願望もあった。大学と八雲の思いはすれ違い、「解任」となった。

学生たちの反発を向けられた漱石の、起死回生の講義
そんな経緯だから、八雲辞任劇のあとの後釜に指名されることに、漱石本人も戸惑いを覚えた。この頃の漱石の様子を、後年、漱石夫人の鏡子がこんなふうに回想している。
小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜にすわったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものではない。また学生が満足してくれる道理もない。もっとも大学の講師になって、英文学を講ずるということが前からわかっていたのなら、そのつもりで英国で勉強もし準備もしてくるであろうのに、自分が研究してきたのはまるで違ったことだなどとぐずついていたようですが、結局狩野さんあたりからまあまあとなだめられて落ちつきました。(『漱石の思い出』)
漱石の戸惑いは、学長の井上哲次郎の日記からも窺える。漱石はこの時期、2月3日、2月14日、3月6日、3月9日、3月28日と、5回も井上のもとを来訪している。辞退できるものなら辞退したい。そんな交渉もしたのかもしれない。
結局、漱石は一高で英語教師として週20時間(年俸700円)、東京帝大で英文科講師として週6時間(年俸800円)の講義をすることとなった。漱石だけでカバーしきれない大学の講義枠は、上田敏とアーサー・ロイドを講師に任命し、それぞれが週4時間、週2時間の講義を受け持った。上田敏は漱石より7つ年少でかつて八雲が目をかけていた優秀な教え子でもあり、ロイドは愛嬌たっぷりのお雇い外国人。八雲人気の裏返しの反発は、自然と、洋行帰りでフロックコートを身にまとう新任講師・夏目金之助に向けられた。
ここで指摘しておきたいのは、八雲を帝大へ招聘した外山正一は、少し時を溯れば、大学卒業後の漱石を呼び出して「教師をやってみてはどうか」と声をかけ、教職の道に導き入れた人物でもあったということ。外山が亡くなったとき漱石は熊本にいて葬儀への出席は叶わなかったが、漱石は洋行中もふと詩人としての外山のことを思い浮かべ、帰国後は「外山博士奨学資金」に寄付をおこなっている。もし外山が生きていれば、二重の意味で、この「講師問題」をもう少しうまく捌くことができたように思える。
大学の教壇に立ちはじめた漱石は、案の定、学生たちに冷たい視線を浴びせかけられた。最初の学期が終わった6月末には、漱石はやはり大学を辞職したいと思い井上学長に申し出ている。7月2日付の菅虎雄あて書簡から、それが分かる。
僕大学ヲヤメル積(つもり)デ学長ノ所ヘ行ツテ一応卑見ヲ開陳シタガ 学長大気焔ヲ以テ僕ヲ萎縮セシメタ ソコデ僕唯々諾々トシテ退ク マコトニ器量ノワルイ話シヂヤナイカ
またまた井上学長に強く引き留められ、漱石は大学の教壇に立ち続けることになった。となれば、元来が負けず嫌いの漱石、ただ萎縮してばかりはいられない。気持ちを入れ直し、やがて9月の新学期を迎えると、シェークスピア演劇の講義に力を入れた。すると、その魅力的な講義はたちまち学生たちを惹きつけ、教室に人があふれんばかりの人気を得るようになっていった。
このように学生たちから絶大な支持を受ける一方で、漱石も八雲も一徹者で、他の教師とは余り交流せず、「ミサンスロビスト(人嫌い)」などと言われていたらしい。結局、4年後には漱石も大学を辞任してしまう。学長の井上哲次郎はどちらの取り扱いにも苦労したようで、後年の懐旧録にこんなふうに記している。
夏目氏もなかなか難物で、小泉氏に劣らない天才者で、そして常軌を以て律すべからざるところのあつたことは周知の事実である。
解任された八雲の方は、自分の後任が誰かということより、日本政府や大学に裏切られたような思いとともに、自分はキリスト教勢力(宣教師たち)の讒言によって解任されたとの疑念を抱いていたと言われる。「政治団体と宗教団体」が結束して自分を地位から追放した、と感じていた。振り返ってみると、解任話が浮上する少し前の明治35年(1902)10月、イギリスから来日していた女子教育家のP・E・ヒューズが、安井てつ(女高師の教師)に伴われ、八雲の講義を無断で参観していたことがあった。彼女がスパイ的な行為をしていたのではないかと、八雲は疑ったという。のちにヒューズはこれを否定している。八雲は鋭敏過ぎるほどの神経の持ち主で、時として被害妄想的な猜疑心にとらわれてしまうところがあった。
いずれにしろ、古きよき日本の美と霊性に共感し、日本人の妻を娶り日本に帰化していた八雲を、快く思わない西洋人も、少なからずいたのである。だが、八雲が東京帝大を去って時間的ゆとりを得たことで名著『怪談』が紡がれたことを思うと、結果として、この解任劇は文学史上に大きな貢献をしたことになる。
八雲はこの翌年(明治37年)3月、東京専門学校から組織替えしてまもない早稲田大学の文学科へ、講師として招かれる。週6時間の講義で年俸2000円という条件は、時間割合にすれば官立の帝大に見劣りしないもので、早稲田の文学科創設を主導した坪内逍遥を上回る好待遇だった。八雲のかつての教え子で早大講師だった内ケ崎作三郎が、学監の高田早苗や坪内逍遥に働きかけての招聘と言われるが、背景には小川未明や相馬御風、秋田雨雀、会津八一、野尻抱影といった学生たちによる運動があったという。
早稲田には和服着用の教師が多く、また高田早苗の風采が、松江中学時代の友人で早世した西田千太郎に似ていると言って、八雲は大いに喜び心安んじていたと伝えられる。八雲の講義は、例によって学生たちからも好評を得た。八雲と逍遥の間には、手紙のやりとりをするなどの交流も生まれ、互いの仕事に関する助言も与え合っていく。八雲はどうも、歌舞伎の演目をもとにした創作といったことも考えていたようだ。
後年、自作の小説『吾輩は猫である』や『三四郎』の中にも小泉八雲の名前を登場させるくらい、その存在に敬意を持ち気にかけていた漱石だから、八雲のその後の動向を仄聞して内心ほっとしていたことだろう。漱石はまだ帝大の学生だった明治25年(1892)5月から3年ほど、学資補給のため東京専門学校の講師をしたことがあり、坪内逍遥へ正岡子規や高浜虚子を紹介したこともあった。
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。作家・雑誌編集記者。文学、スポーツ、歴史など幅広いジャンルをフィールドに“人間”を描く。著書に『心を癒す漱石の手紙』『文士の逸品』『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』『ウイスキー粋人列伝』『著名人名づけ事典』『こぼれ落ちた一球』『石橋を叩いて豹変せよ』『あの人はどこで死んだか』など多数。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











