取材・文/鳥海美奈子
「山梨ワイン」と聞いたとき、果たしてどんなイメージを抱くだろうか。日本ワイン発祥の地。ワイナリー数日本一を誇る地。そう、日本には現在、ワイナリー数が約400軒あり、そのうち約90軒が山梨にはひしめく。
長い歴史を誇る山梨には、新旧多彩な生産者がせめぎ合い、互いに切磋琢磨しているのだ。
その山梨は、江戸時代にはすでにぶどうの一大産地だった。扇状地の砂地土壌のため水捌けがよく、昼夜の寒暖差大きく、日照時間が長いといった自然環境がぶどう栽培に適していたからだ。
そんなぶどうの名産地で、日本初のワインが造られたのはむしろ必然だったといえるのだろう。明治3(1870)年頃、僧侶の山田宥教と民間人の詫間憲久が甲府で日本初のワイン造りを行ったとされる。それからまもなく、明治政府の殖産興業政策によりワイン造りが奨励されて、山梨にはワイナリーが次々と誕生していった。
ゆえに、約100年もの歴史を持つワイナリーが山梨にはいくつか存在する。そのひとつが機山洋酒工業のキザンワイナリーである。創業、昭和5(1930)年。ワイナリーを設立したのは現当主・土屋幸三さんの祖父だ。
土屋家はもともと塩山・松里地区の地主で、小作も多く抱えていた。いまなお残る土屋家の立派な母屋も、往時の隆盛を物語っている。
「それまで祖父は、甲州で石炭商を営んでいましたが、世界恐慌のときに商売をたたんで地元に戻ったのです。当時、この辺りは大打撃を受けて、それまで盛んだった養蚕農家からワイナリーへと転換した人も多かった。いまでは想像するしかありませんが、祖父は新しい西欧的な産業への希望や憧れを持っていたのではないかと思います」
機山洋酒工業の「機山」の名は武田信玄の戒名『恵林寺殿機山玄公大居士』にちなむ。武田信玄の菩提寺の恵林寺は、ワイナリーからわずか徒歩5分ほどのところに佇んでいる。
設立当初から現在に至るまで、機山洋酒工業は家族経営を守り続けてきた。いま畑は約1haであり、それに加えて契約農家のぶどうも使っているが、規模はそれほど大きくはない。
なにより特筆すべきは、その価格の手頃感だろう。事実、機山のワインはすべて1000円台。最も高いスパークリングでも2000円台後半だ。その安価な価格に対して、目を惹くのが味わいのクオリティの高さである。
甲州種100%の『キザンワイン白2019』(ワイナリー直売価格1239円税抜)を飲んでみる。甲州の特徴である柑橘系の香り。グレープフルーツや柚子、そして白桃のような香りも感じ取れる。味わいの線は太くはないが、明確な骨格を持ち、後味には甲州らしい渋みとフレッシュな酸がある。日常的な和食、たとえばきれいな関西風出汁を張った野菜の炊き合わせ、味噌を使った料理などにぴたりと寄り添ってくれる。
「私たちのような小さなワイナリーは晴れの場で飲むワインではなく、日常の食卓にいつもあるワインを造ることが使命だと思っています。そのなかで質を追求していきたい」
そう話す土屋さんの言葉はつねに冷静で、理知的だ。その人生観、仕事観は果たして、どのように育まれたのか。
土屋さんは大阪大学工学部発酵工学科を卒業後、協和発酵へと就職した。
「大学で勉強したのは応用微生物学です。灘の清酒の蔵元にも行ったりと現在の仕事に通じるところも少しありますが、当時は自分がワイン造りをするとは思ってもいませんでした。就職した協和発酵はバイオテクノロジーのトップを走る企業で、役員は全員博士号を持つドクター。医療、化学、食品の応用研究などを行っていました」
その後、醸造試験場(現・酒類総合研究所)へと出向し、そこで土屋さんは東京大学の博士号を取得する。研究所も醸造試験場も、恵まれた環境のなかで20代の職業人生を過ごした。第2の青春、第2の大学生活を思わせる日々。充実していた。
「自分で研究計画を筋道立てて考え、そして根拠とともに論を進めていく。でも情報を読み解く力ひとつをとっても、とてもではないけれど、一筋縄ではいかない。論文やディスカッションでぼろぼろに言われたことも少なくありませんでした」
ものごとをいかに思考するか。学んだのは、そのレッスンだった。
「全体をどうとらえるか。逆に全体のなかで部分をどうとらえるか。それを客観的に考えていきます。さらには、じゃあ客観とはなにかということも突き詰めていく。その結果、より本質的なもの、真実へと到達していくのです。その思考方法は、現在のワイン造りにも生きています。まず、自分たちはどういうワインを造りたいかという方針を考える。その後は筋道を立てて、シンプルに、一貫性をもって仕事を進めていきます」
醸造試験場には、酒類メーカーなどから出向してきた同年代の人たちがいて3年間、ともに切磋琢磨した。妻の由香里さんともここで出逢う。由香里さんは土屋さんと同じ大学の後輩であり、当時は菊正宗から出向で来ていた。
醸造試験所から協和発酵へ戻った翌年に結婚。しかし、会社での仕事に次第に興味を持てなくなり、94年7月に退職。実家のワイナリーを継ぐことになる。28歳だった。
「仕事が面白ければ辞めなかったと思いますし、父からはワイナリーを継いでくれとは言われていませんでした。帰ってきて欲しいと思っていたかもしれませんが、言葉にすることはなかった。ただ自分にとって選択肢がもうひとつあった、ということでしょうね。妻にも、自分の好きな仕事をしていいと言われていました」
当時、父は63歳。高齢に差しかかっていたが、母とふたりで家族経営のワイナリーを維持し続けていた。だがワイン造りの現場を見ると、醸造所の設備も古く、管理もほとんど行き届いていない状態だった。
「これは大変なことになるなと正直、思いました。あの現状を知っていたら、戻ってこなかったかもしれない(笑)。父も、ワイナリー経営や設備をすべて見直して構わない、と言っていました。帰ってしばらくはもう一度、就職活動をしようかと考えたこともありましたね」
その頃の日本は、人々にワインを飲む習慣がまだ根づいていなかった。ワインを買ってもらうこと自体が、困難な時代だった。いまのように、ネット上に情報も溢れていない。それはワインを造る側もまた、同様だった。
清酒工場の現場は知っていたが、土屋さんはぶどう栽培とワイン醸造を学ぶためオーストラリア・アデレード大学院への留学を考えた。本来は妻の由香里さんとふたりで行く予定だったが、「私のTOEFLの点数が2点ほど足りなくて」土屋さんは断念。由香里さんは96年から1年間の留学を経て、帰国した。
「土屋さんは堅実にワインを造ってきた、と言われることもあるんですよ。でも、畑がめちゃめちゃになった年も経験したし、ワインの在庫が膨らみ、自社畑のぶどうを改植することで一時的に生産量を減らして、しのいだこともあった。でも98年に初めのワインブームがあって、だんだんワインも売れるようになっていきました。同じ頃に子供ができたこともあって、ワイン造りを続けてきたのです」
醸造などの設備は古いものを使いながら、少しずつ変えていった。その作業がすべて終わったのはほんの3年前だ。
「25年間という本当に長い時間が必要でした。でも設備を整えたことでワインをより清潔に管理できるようになり、酸化やバクテリアなどによる汚染リスクが少なくなりました。どんな世界でも基本が大事といわれますが、ワイン造りも同じで、ひとつひとつの丁寧な作業の積み重ねなのです」
【その2に続きます】
取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・ブルゴーニュ地方やパリに滞在して、文化や風土、生産者の人物像などとからめたワイン記事を執筆。著書に『フランス郷土料理の発想と組み立て』(誠文堂新光社)。また現在は日本の伝統文化、食や旅記事を『サライ』他で執筆している。