『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
敦賀から小浜までの間には、気山津・古津・西津と中世以来栄えた港町が続く。若狭湾には、奥羽や蝦夷地から、また西国はもとより中国や朝鮮国さらには南蛮国からの船舶が入港した港町が点在していた。江戸時代に北前船が登場する以前、これらの若狭湾の港町が、東西の日本海流通を中継していたのである。
私たちは、敦賀を離れて一路小浜をめざした。到着したのは、小浜市立図書館だった。ここで、小浜城下町を描いた「小浜町図」(酒井家文庫)をはじめとする古絵図や古文書の数々を閲覧させていただくのである。
筆者は、以前から小浜では中世と近世が同居していたことに興味をもっていた。つまり、中世守護所の後瀬山城とその山麓居館が、藩政時代になっても活用されたからである。実際に「小浜町図」を拝見すると、守護武田氏の居館跡が小浜藩主酒井家墓所の空印寺になっており、中世以来とみられる堀が巡らされている。
なお、明治時代まで、この堀は残存したそうで、正面が幅5.5メートル、西側が幅13メートルもあった。中世には、二重堀だったともいわれており、内側には大規模な土塁が巡らされていた。また、後瀬山城には城割された形跡がないという情報もある(『若狭の中世城館』)。
実は、小浜に到着した後、後瀬山の見目麗しき山容が、筆者を捉えて放さなかった。「後瀬山 後も逢はむと 思へこそ 死ぬべきものを 今日までも生けれ」。『万葉集』にも詠まれた歌所を訪ねないのはまずいのではないか、という心の声がどんどん大きくなってきた。
そこで、筆者は古文書閲覧の後に無理を承知で、予定にない後瀬山への「登城」をみなさんにお願いした。本日の残りの時間は町歩きになっていたのだが、随行予定の市職員のみなさん、そして城好きの編集者Iさんら「半島をゆく」スタッフも含めて、みなさん快くお引き受けいただいた。
廃城後に本丸に鎮座した愛宕神社の参道として敷設された道が、もっともオーソドックスな登山ルートになっているが、往時のものではない。登り口に到着した私たちは、標高168mということから、一気に登れるかと思っていたのだが、甘かった。意外にきつかったのである。
●若狭武田氏と甲斐武田氏の関係
後瀬山城の城主である若狭武田氏は、本家の甲斐武田氏は超有名であるが、残念ながら一般的にはあまり知られていない。甲斐武田氏の分家である安芸武田氏から分かれた家系である。一族間の付き合いは戦国末期まで続いたようで、武田信玄が若狭武田氏を気遣っていたこともわかっている。
若狭武田氏は、安芸武田氏4代の武田信繁の子息武田信栄が、将軍足利義教の命を受けて永享12年(1440)に一色義貫を誅殺した恩賞として若狭守護職を得たことに始まる。後瀬山城は、大永2年(1522)に武田元光(発心寺殿)によって築城された若狭最大規模の山城である。
当城は、隣国丹後方面に配慮した縄張を採用し、大小九つのブロックの曲輪群と多数の堀切・竪堀が確認されている。本来の登城は、空印寺の裏から登る道を使ったようだが、鉄道(小浜線)敷設のため削り取られたらしい。
城の縄張は、居館を守るように左右に曲輪群が形成されて本丸に至るという、所謂「鶴翼」のプランである。元来は、石垣を使用しない典型的な中世山城だったが、天正元年に丹羽長秀が国主となって以降、浅野・木下・京極と続く歴代城主が本丸を中心に石垣普請したものと推測される。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いによって、京極高次は若狭一国8万5千石を得て近江大津から転封した。彼は海岸に面した竹原の地を選び築城を開始した。後の小浜城である。ただし、子息忠高の代に及んでも工事の進展はみなかったようで、相変わらず後瀬山城を使用していたとみられる。寛永11年(1634)年、京極氏に替わって入国した酒井忠勝の代から本格的な築城工事がなされたのである。
ところで、なんとか本丸まで登りきった私たちだったが、みなさん一様に「来てよかった!」と思ったようだ。本丸とその周辺の石垣遺構の立派さに驚くとともに、その残り具合のよさに感心したからである。往時は、はるか海上からでも山上の石垣と建造物を望むことができたであろう。
小浜築城が進捗しなかった理由は、石材不足によるものだったという。そうであるならば、至近の旧城後瀬山城から転用するのが一番である。ところが、後瀬山城の本丸を中心とする遺構の保存状態がよいということは、その後の藩政時代にも管理されていたとみるべきであろう。
おそらく、建築物や石垣を移して廃城にしたところで、敵対勢力が侵入すると、確実に後瀬山を占拠して小浜城に対する陣城を普請するであろうから、藩側が管理していたと推測される。
●本能寺の変、光秀に味方して滅亡した若狭武田氏
若狭が近世を迎えるきっかけになったのが、丹羽長秀が国主となった天正元年である。筆者は、丹羽氏から京極氏までの約80年間に、若狭において近世化が段階的に進んだとみている。近年、長秀の若狭支配については議論が深まりつつあるので紹介したい。
天正元年に隣国越前の戦国大名朝倉氏が、信長の攻撃を受けて滅亡した。これまで、武田信豊・義統・元明の三代は、一族間に内紛が相次ぎ、国内における求心力を失っていた。しばしば親子で対立し、国内勢力を分断する事態に直面し、その期に乗じて武田元明を拉致するなど、朝倉氏が露骨に若狭への侵入を繰り返していた。
戦国時代において、3郡からなる若狭国内の有力勢力は、中央に位置し半国規模の遠敷(おにゅう)郡に守護武田氏、三方郡の粟屋氏、大飯(おおい)郡の逸見(へんみ)氏である。朝倉氏が滅亡した結果、元明が帰国し若狭一国は武田氏を旗頭にまとまる条件を獲得したのである。信長は、丹羽長秀に若狭を任すことにした。
長秀は初期には若狭に入国して支配をおこなったようであるが、天正4年からは安土城普請と佐和山城の管理、天正8年からは大阪城普請というように、信長の側近として他国にあった。そのため、信長からは尾張時代から長秀と入魂だった溝口氏が派遣され、国務を代行したのであった。
天正9年には逸見氏が途絶えて、その後継者として溝口氏が位置づけられた。それに加えて、長秀は息女を粟屋氏に嫁させて良好な関係を築いており、武田氏を利用しながらも、国内支配を着実に深化させていった。
長秀にとって武田氏は、あたかも浅井氏にとっての北近江の守護京極氏と同様な存在だった。武田元明は、小浜の神宮寺に入っていた。中世勢力との協調によって、長秀の若狭支配は安定していたのである。ところが、これが仇になったのが本能寺の変だった。
母親が足利義晴の娘だった関係から、義昭に呼応して明智方となった元明は、変直後に若狭衆を従えて出陣し、長秀の近江佐和山城(滋賀県彦根市)を乗っ取ったのである。国内にもそれに呼応し蜂起した武田牢人衆が、国吉城(福井県美浜町)の溝口氏を攻撃したりするなど、一国は混乱状況に陥った(「溝口文書」)。
当時、大阪城に籠城していた長秀であるが、越前北之庄城に帰還した柴田勝家と連携して光秀方を攻撃しようとするが、羽柴秀吉が「中国大返し」によって上方に帰還するまで、城外に出ることすらかなわなかったのである。
このような武田氏復権のチャンスも、たちまち暗転する。山崎の戦いによって光秀が敗退した後、元明は近江国海津の法雲寺(滋賀県高島市)に呼び出され、謀殺されてしまう。天正10年7月19日のことだった。ここに、若狭武田氏は滅亡したのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442