文/倉田大輔
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公である明智光秀。
日本史上で最大のミステリーの1つ「本能寺の変」を起こし、逆臣や裏切者の代名詞となっています。「本能寺の変」の理由も織田信長への怨恨説、天下への野望説、黒幕説など50以上もの解釈があります。
当時の状況や現代医療の視点から、私自身の解釈で「明智光秀の謀反と病」を診ていきます。
・「光秀のカルテ」を作る!
まず一般に知られている内容をカルテにしてみましょう。
氏名 | 明智 光秀(あけち みつひで)享年55歳 |
生没年 | 1528年?~1582年 |
出身地 | 岐阜県・美濃の国。
岐阜県恵那市明智町・可児市瀬田・山県市美山町などに出身地説がある |
親類縁者 | 斎藤道三の妻(小見の方)が叔母、道三と小見の方の娘が濃姫(織田信長の妻)。光秀は齋藤・織田家と親戚関係 |
趣味・特技 | 学問、武芸(鉄砲の名手)、茶の湯 |
仕事への熱意 | 職務や上司に忠実 |
性格 | 家族や家臣への細やかな心配り。
ルイス・フロイスは「狡猾、残虐、独裁的、忍耐力がある」と評している |
持病の有無 | 明らかな内臓疾患など持病は見当たらない |
死因 | 討死(豊臣秀吉と戦った山崎の戦い敗戦後、落ち武者狩りで死去) |
当時の世相記録で有名な「ルイス・フロイス」は光秀を酷評しています。比叡山延暦寺への焼討ちや対抗勢力との戦いが残虐に映ったのかもしれませんが、信長の命令を忠実に実行しただけとも考えられます。フロイスは自分の上司から「誇張癖があり、中立的ではない」という評価を受けてしまっています。フロイスの光秀評は少し差し引いて考える必要がありそうです。
「職務や上司に忠実で結果を出す。家族と部下思い、学問や武芸を好む知識人」である光秀は、上司や部下として理想的な人物に思えます。
・光秀の人生?
明智光秀は、生まれた年や前半生に謎が多い武将です。徳川家康の家臣「天海僧正」として江戸時代まで100歳以上生きたという説もあります。
0歳 | 1528年 | 美濃の国(岐阜県)で生まれる |
15歳頃 | 1555年 | 道三と長男・義龍が争った(長良川の戦い)で、住んでいた明智城が攻められ落城し、落ち延びる |
全国を旅する(北陸、東北、小田原、中国地方など) | ||
35歳 | 1562年 | 越前朝倉氏に仕える |
41歳 | 1568年 | 足利義昭を織田信長に引き合わせる |
42~43歳 | 1569年頃 | 織田家へ(→現代のヘッドハンティング?) |
44歳 | 1571年 | 坂本城主になる。織田家の家臣では最速の出世 |
48歳 | 1575年 | 長篠の戦い、越前一向一揆との戦い |
49歳 | 1576年 | 重病を患い、光秀死亡説も流布。
治療により2か月程度で回復? |
53歳 | 1580年 | 織田家を離反した荒木村重らを攻撃 |
54歳 | 1581年 | 正親町天皇の前で行われた「京都馬揃え」の総責任者 |
55歳 | 1582年 | 本能寺の変、山崎の戦いで敗死 |
「全国を旅している知見、足利義昭ら室町幕府側との人脈、織田家と明智家が親戚関係」
などを考えると、途中入社であっても光秀のスピード出世は当然だったように思えます。
49歳頃の病気は、当時の名医:曲直瀬道三に診察してもらいますが、病名や治療など詳細は不明です。診察カルテが本当に無いのか破棄されたのかは分かっていません。
・光秀は「全般不安症」だった?
私は光秀が「全般不安症(Generalized Anxiety Disorder)」を患っていたと推測しています。「全般不安症は、家族や仕事、人付き合い、健康など、生活していく上での様々な活動や出来事に対して、いつまでも深刻に悩み、不安や心配し過ぎる」病気です。
まずは光秀に関連しそうな部分を診ましょう。
1)発症しやすい年齢:
中年期がピークで、高齢者の場合は約50%~60%でうつ病を合併しやすい(現代の場合)。
→現代の治療を行った場合でも3年以上と長引くこともあります。有効な治療が無かった時代の光秀は、49歳前後から6年(本能寺の変)患っていた可能性もあります。
2)主な症状:
気分症状や認知機能症状「落ち着きがない、疲れやすい、集中力の低下、睡眠障害」、
身体症状「吐き気、頭痛、下痢、発汗、震え」
→ 集中力の低下が職務の失敗や失言を招き、今までの光秀の仕事ぶりとは異なり、職務怠慢のように思われてしまう
→ 信長からの叱責(いわゆるイジメ)につながる?
「全般不安症」では、アルコール依存を合併する傾向があります。謀反人として悪い点をたくさん列挙されている光秀ですが、お酒で乱れたという記録は見当たりません。
・謀反の引き金になった?
「全般不安症」は、「危険を回避するために予期的な憂慮が必要という思い込み」が根底にあります。予期する事態が生じなければ一旦は落ち着きますが、「もしかしたら、次に起きるかもしれない」と考える悪循環に陥ります。
信長は1580年前後に数十年仕える重臣たちを職務怠慢などの理由で突然追放しています。勤続10年程度の光秀は、成果を常に出さないと追放されるという不安を抱いていた可能性は高いでしょう。
「本能寺の変」の原因として、「中国地方毛利家を攻めている秀吉に加勢する命令(ライバル秀吉の部下になる屈辱)」説があります。この命令を受けた時に、光秀自身が自分は信長に不要な存在で、追放や殺害という「予期的な憂慮」を感じて、危険を回避するために謀反を起こしたのかもしれませんね。
・光秀の「全般不安症」はどう対処する?
戦国時代には「全般不安症」の概念も治療法もありません。現代、「全般不安症」の治療は「精神療法(認知行動療法)」を主体とし、適宜お薬を併用します。「精神療法」は、症状が悪くなるきっかけや状況を本人や周囲の人に十分確認し、症状が良くなる因子への気づきを促し、行動を促す治療方法です。症状や経過で抗うつ薬や漢方薬などを選ぶなど治療には精神科の専門知識が必要です。
光秀は1576年頃、「全般不安症」と思われる病で治療を受けています。2か月程度で改善したという記録は、周囲から判る「身体症状」だけ改善され、判りにくい「気分症状」は続いていたのかもしれません。
続いて当時として出来得る対処法を考えてみましょう。
1)上司である信長の説明と理解
光秀の知識や経歴などから、信長は光秀を「織田政権の行政や外交全般を司る首相級閣僚にする」ことを考えていたように思います。中国毛利攻めへの秀吉への加勢命令も総大将である信長の参謀役を期待していたのではないでしょうか。「信長にとっては些細な人事配置」の真意が、光秀には伝わらなかったのかもしれません。
信長が人事配置方針を部下にきちんと説明する、光秀達家臣が感じる将来の不安に対してもっと理解するべきだったと思いますが、現実的にはなかなか難しそうですね。
2)光秀が織田家を退職するか隠居する
部下に成果を求める信長の下では、「予期的な憂慮」から逃れそうにありません。光秀としては「織田家を退職や隠居」しても良かったかもしれません。ただし、信長の天下統一が進む中で、世の中の状勢を読める立場の光秀が「毛利家や上杉家、北条家、伊達家といった戦国大名に転職した時の将来性」、「退職や隠居自体が謀反行為とされ、討伐される可能性」を考えると、決断するにはかなり勇気が必要だったでしょう。
「全般不安症」は現代の私たちにも無関係な病気ではありません。光秀や信長が生きた戦国時代とは違い治療法もありますから、もし家族や職場で悩んでいる方がいれば、適切な医療機関を受診して頂きたいと思います。
取材・文/倉田大輔
池袋さくらクリニック院長。日本抗加齢医学会 専門医、日本旅行医学会 認定医、日本温泉気候物理学会 温泉療法医、海洋安全医学・ヘルスツーリズム研究者、経営学修士(明治大学大学院経営学研究科)
2001年 日本大学医学部卒業後、形成外科・救急医療などを研鑚。
2006年 東京都保健医療公社(旧都立)大久保病院にて、
公的病院初の『若返り・アンチエイジング外来』を設立。
2007年 若返り医療や海外渡航医療を行う『池袋さくらクリニック』を開院。
「お肌や身体のアンチエイジング、歴史と健康」など講演活動、テレビやラジオ、雑誌などへのメディアに出演している。
医学的見地から『海上保安庁』海の安全啓発への執筆協力、「医学や健康・美容の視点」から地域資源を紹介する『人生に効く“美・食・宿”<国際観光施設協会>』を連載。自ら現場に赴き、取材執筆する医師。
東京商工会議所青年部理事
東京商工会議所 健康づくりスポーツ振興委員会委員
東京商工会議所 豊島支部観光分科会評議員
【クリニック情報】
池袋さくらクリニック
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