文/印南敦史
定年を迎え、あるいは定年を前にして、どことなく心が不安定になっていると感じている方もいらっしゃるのではないだろうか?
定年は人生の大きな節目なのだから、それは仕方がないことだ。
とはいえ、フラフラと動きやすい心は、ポキンと折れてしまいやすいものでもある。つまり、支えとなるものが必要なのだ。そこで「名言」を味方につけるべきだと主張しているのは、『100年後まで残したい 日本人のすごい名言』(齋藤孝 著、アスコム)の著者である。
名言は心の砦になります。雪崩のように心が崩壊するのを食い止め、漏電のように常にエネルギーが消耗されていくのを防ぎます。
名言を自分のものとするには、まずしっかり自分に刻み込むことが必要です。
「これは」と思う言葉に出合ったら、その場で声に出して何回か読みます。言葉の持つリズムとともに、身体で覚えるような感覚です。
そして、日常生活の中で使っていく。引用したり、判断基準としつつ行動したりして、使うのです。そうする中で、名言は心を支えるものになっていきます。(本書「はじめに」より引用)
こうした考え方に基づく「100年後まで残したい日本人の名言」というコンセプトのもと、本書では30種の名言が厳選されている。そして著者は、日本人ならこの30種は暗唱できるようになってほしいとも記している。
ことばがあふれ、SNSの普及に伴いことばの価値がますます不安定になっていく時代だからこそ、これらのことばを後世に語り継いでほしいというのである。
すべて覚えることができれば、それは30もの心の砦ができたということにもなる。そう考えると心強いし、活用しない手はないとも思えてくるのではないだろうか?
「心が折れそうなとき」「背中を押してほしいとき」「成長したいと願ったとき」「人付き合いに悩んだとき」「道に迷ったとき」と、30の名言は人生におけるさまざまな局面に合うように分けられている。
定年と対峙する時期は、道に迷った状態だとも言えるだろう。そこで今回は第5章「道に迷ったとき」のなかから、世阿弥の名言をクローズアップしたい。
是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。
『花鏡』(世阿弥・著)より
(本書200ページより引用)
誰もが知る「初心忘(れ)るべからず」は、もともとは世阿弥のことば。現代では、「物事に慣れると慢心してしまいがちだが、最初のころの志を忘れてはいけない」という意味で使われるのが一般的だ。しかし世阿弥のことばはもっと深く、繊細な意味を持っているのだという。
ご存知のとおり、世阿弥は能の大成者。それまで各地で催されていた猿楽や田楽を、室町幕府三代将軍足利義満の庇護を受け、観阿弥・世阿弥親子が能という芸術に進化させたわけである。
世阿弥が観阿弥から伝えられた芸の極意をまとめた『風姿花伝』、後期に著した『花鏡』は、日本の文化史上特に優れた作品であり、世界的に見ても類のない芸術論として有名だ。
「初心忘るべからず。」は、そんな『花鏡』の最後、「奥の段」に出てくることば。上記のように「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」と3つに分けられている。
「是非の初心忘るべからず。」が説いているのは、「未熟だったときの芸も忘れることなく、判断基準として芸を向上させていかねばならない」ということ。
「時々の初心忘るべからず」は、「その年齢にふさわしい芸に挑むということは、その段階においては初心者であり、やはり未熟さ、つたなさがある。そのひとつひとつを忘れてはならない」ということ。
そして「老後の初心忘るべからず」は、「老年期になって初めて行う芸というものがあり、初心がある。年をとったからもういいとか、完成したとかいうことはない」ということ。
限りのない芸の向上を目指すべしと説いているわけで、これは定年を前にした世代にもあてはまることかもしれない。
初めてのことに取り組む際の新鮮な気持ち、初々しい気持ち以上に、自分の未熟さを忘れるな、つたなかったときのことを忘れるなということ。これは仕事や人生にも通じる考え方であり、つまり初心は一生続くのだ。
人生の道に迷ったときは、初心、すなわち自分が未熟だった頃のことを思い返すというにも一つの手です。おごり高ぶったり、油断したりする気持ちを戒め、謙虚な気持ちで道を選ぶことができるでしょう。
(本書205ページより引用)
たとえば、定年というステップに直面する時期だからこそ、あえて社会に出たばかりだったことの自分を思い返してみる。もうすべてをやり遂げたなどと思わず、「これから、なにができるだろうか?」と考えてみる。
そうしたことが、実はなにより大切なのだろう。
『100年後まで残したい 日本人のすごい名言』
齋藤孝 著
アスコム
価格:1400円(税別)
2019年7月発売
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』などがある。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。