取材・文/藤田麻希
美濃焼とは、岐阜県南部の美濃で焼かれたやきもの総称です。とくに桃山時代に隆盛し、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などが焼かれ、一世を風靡しました。ところで、美濃でつくられたものなのに、瀬戸や瀬戸黒の名前には、なぜ、愛知県の「瀬戸」という地名が入っているのでしょうか。
■陶芸家・荒川豊蔵によって発見された美濃焼
じつは、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部は、瀬戸で生産された瀬戸焼の一種だと考えられていました。その通説は、昭和5年(1930)、陶芸家の荒川豊蔵による、発見によって覆されました。荒川豊蔵は当時、北大路魯山人の手伝いをしており、魯山人とともに名古屋を訪れた際、桃山時代の「志野竹の子文筒茶碗」を見る機会を得ました。そのときに、高台の内側についていた赤い米粒大の土を見て、そのような土が瀬戸で使われていないことから、通説に疑問を持ちました。その後、美濃の大萱にある古窯を調査した折に、偶然にも、魯山人と見たのと同じ、竹の子模様が描かれた陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことが実証されたのです。さらに、黄瀬戸や瀬戸黒の陶片も美濃から見つかり、これらの発見をきっかけに、瀬戸焼から独立した美濃焼という概念が定着しました。
このような経緯で「発見」された美濃焼に関する展覧会「サントリー芸術財団50周年 黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部 -美濃の茶陶」が開催されています。この展覧会の出品作品から、その特徴を見ていきましょう。
■黄瀬戸――シンメトリーで丹精な姿
日本絵画史と同様、日本の陶磁史も中国の影響を受けながら展開してきました。中国陶磁は「唐物」と呼ばれ、武将たちの垂涎の的でした。やがて、15世紀末頃から瀬戸や美濃では、唐物を写した和物茶陶がつくられるようになり、端正な形の唐物の姿を借りた黄瀬戸も多くつくられます。「黄瀬戸立鼓花入」は、中国由来の古銅と呼ばれる銅器の形を参考にしています。桃山時代には、あえて形をゆがませる造形が流行りましたが、黄瀬戸については、シンメトリーでシンプルな端正な形の作例が多いです。
■志野――絵が描かれている革新性
志野は日本初の白い釉薬を施したやきものです。中国の白磁を写そうとする過程で、長石釉という白い釉薬が使われるようになり、志野が生まれました。白磁の固く冷たい雰囲気には遠く及びませんでしたが、ぽってりとした釉薬による柔らかく温かみのある独自の風合いが人気を集めました。また、日本で初めて下絵付(釉をかけるまえに絵付をする技法)が行なわれたのも志野でした。茶色や深緑など、焼き締めの渋い色が中心だったやきものの世界に、白地に絵が描かれた華やかなやきものが登場したのです。
■織部――桃山茶陶らしい破格の造形
織部は、茶人・古田織部の好みを反映していると考えられています。銅緑釉による色鮮やかな緑色、あえて歪ませた器の形、轆轤ではなく型を使った山形、州浜形等の自由な造形、大胆で幾何学的な模様などが特徴です。「織部南蛮人燭台」のように、南蛮人そのものを立体化した奇抜な作例もあります。
また、今回の展覧会の準備を進める過程で、織部の一種である志野織部の絵柄に関する小さな発見がありました。
「16世紀後半から17世紀前半の、扇絵とそれに対応する和歌を記した『扇の草紙』という書物のなかに、傘と鷺を描いた志野織部の向付けの絵柄と同じものを見つけました。『扇の草紙』と絵柄の一致する志野織部の向付は、この一例しか見つけられませんでしたが、『扇の草紙』を参照して志野織部の絵が描かれていたことの一端を示すことができました」(サントリー美術館学芸員・安河内幸絵さん)
本展は、荒川豊蔵など美濃焼の評価を高めた近代陶芸家の作品とともに、約140件の美濃焼の名品を紹介する展覧会です。華やかで色彩豊かな美濃焼の魅力を堪能しに、お出かけください。
【サントリー芸術財団50周年 黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部 -美濃の茶陶】
■会期:2019年9月4日(水)~11月10日(日)
※会期中に展示替えがあります。
■会場:サントリー美術館
■住所:東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階
■電話番号:03-3479-8600
■展覧会サイト:https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2019_4/
■開館時間:10:00~18:00(金・土は10:00~20:00)
※10月13日(日)、11月3日(日・祝)は20時まで開館。
※いずれも入館は閉館の30分前まで
■休館日:火曜日(11月5日は18時まで開館)
取材・文/藤田麻希
美術ライター。明治学院大学大学院芸術学専攻修了。『美術手帖』