取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
天皇陛下の玉座から自動車シートまで手掛ける椅子作り名人。その健康は毎朝、自ら作る人参と林檎のジュースが支える。
【宮本茂紀さんの定番・朝めし自慢】
“モデラー”という言葉をご存知だろうか。建築家やデザイナーが描いた家具などの絵を基にモデルを作り、開発を手掛ける試作開発者のことだ。その日本人初にして、第一人者が宮本茂紀さんである。
「日本ではほとんど知られていなかった職業です。昭和40年代、私はイタリアの工場研修でデザイナーと現場をつなぐモデラーに出会い、この仕事を日本でも定着させたいと思いました」
その言葉通り、隈研吾やザハ・ハディドといった時代を代表する建築家と組んで椅子を製作。一方、昭和天皇の玉座や迎賓館の椅子の修復、また寝台車や電気自動車のシート試作、さらには海外ブランドのライセンス生産と、伝統的な仕事から最先端のそれまで、幅広く椅子に携わってきた。
昭和12年、東京生まれ。静岡県伊東市の漁師の家で育つ。が、船酔いが酷く、漁師になることを断念。粘り強さと手先の器用さを見ていた中学校の先生の勧めで、東京・深川の椅子職人に弟子入り。昭和28年4月1日、15歳だった。
「昭和20年代後半は、戦中戦後の倉庫に眠っていた美術品が世に出始めた頃。私が弟子入りした親方はその修復をやっていた。椅子張りだけでなく、修復で塗装や金箔貼り、彫刻とひと通りは学び、一人前に育ててもらいました」
独り立ちし、渡り職人として大手百貨店の仕事を請け負いながら、夜間の高校、大学で学ぶ。昭和41年、古典的技法による椅子製作及び修復を手掛ける『五反田製作所』創業。同60年にはグループの『ミネルバ』を設立。こちらはオリジナル家具の製作が主な仕事である。
料理は徒弟時代に覚えた
10代の徒弟時代は親方一家と生活を共にし、技術を習得すると同時に家事労働もこなした。
「朝5時に起きて飯を炊き、味噌汁を作って、糠味噌の漬物を出す。小僧時代からやっていたので、今も料理は苦になりません」
という宮本さんは11年前に夫人を亡くし、今はひとり暮らし。昼食はお手伝いさんに任せるが、朝食と夕食は自分で調える。いずれも屋上菜園で採れる無農薬野菜中心の献立だ。畢竟、季節によりその内容は異なるが、朝食に欠かさないのが人参と林檎のジュース。
「医者の講演でこのジュースを知り、10年来愛飲しています」
林檎の甘みで飲みやすいのが、長続きの秘訣である。
人間工学の数値では測れぬ真底、人に優しい椅子を作りたい
宮本さんの職人人生の中でも、印象深い椅子がある。マッカーサーの椅子である。今はアメリカの『マッカーサー記念館』に所蔵されているが、平成21年に日本に里帰りした折、白洲家からレプリカ製作の依頼を受けたという。
「(白洲)次郎さんがデザインし、マッカーサー元帥に贈った椅子です。よく見ると、椅子には釘が使われたところからヒビが入っている。これは次郎さんの本意ではなかろうと、日本の組手の技術を用いて再現しました」
白洲次郎との交友は昭和40年代半ばまで遡る。当時、『五反田製作所』はドイツ・コール社の椅子を製造しており、コール社の輸入商社であった『大沢商会』の会長が白洲次郎だった。白洲の趣味が木工仕事で話が合い、意気投合。可愛がってもらったという。
今、宮本さんが力を注いでいるのが「マイチェア」だ。各人の体格に合うサイズで、その人なりの座り心地を追求した椅子である。
椅子作り65年で培ってきた確かな技術。それを生かして人間工学による数値のみでは測れぬ、究極の座り心地を追求する。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2018年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。