文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になつてくれるだらう」
--川端康成
今年のノーベル文学賞が長崎生まれの英国人小説家カズオ・イシグロ氏に決まり、本屋の店頭はその著作で賑わっている。受賞決定後、ロンドン市内で行なわれた記者会見では、氏は川端康成、大江健三郎の名を上げ、「その足跡に自分がつづくことをありがたく思う」と語っていた。
川端康成は鎌倉文士の代表格でもあった。鎌倉に移住したのは、昭和10年(1935)、36歳のとき。川端は明治22年(1889)大阪の生まれだが、以前から鎌倉には特別な意識を持っていた。川端家は鎌倉幕府3代執権の北条泰時から出て700 年続く家柄--そんな言い伝えを、亡き祖父から聞かされていた。結局、川端はこのとき以降、生涯、鎌倉の地に住みつづけたのである。
昭和20年(1945)の敗戦以降、川端が「日本の美の伝統を継ごう」との思いをいよいよ深めていったのも、鎌倉という土地柄が少なからず影響していたのかもしれない。
川端は、敗戦直後に病没した友人で作家の島木健作に献じた追悼文にも、こんなふうに綴っている。
「あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」
ここにも、日本回帰ともいうべき川端の心情が如実に読み取れる。
それから20年余りが過ぎた昭和43年(1968)、川端は日本人として初めてノーベル文学賞を授与された。『雪国』『千羽鶴』『古都』などの日本情緒にあふれた作品が評価されたのだった。
掲出のことばは、その後の授賞記念講演『美しい日本の私』の中で川端が述べたもの。「あはれな日本の美しさ」を見つめつづけた視線は、「末期の眼」にもつながっていく。
川端には「葬式の名人」という異名もあった。横光利一、菊池寛、堀辰雄、高見順、林芙美子といった作家仲間を見送り、文学作品と見紛うような見事を追悼の辞を捧げてきたのだ。また、いつからか墓石に興味を抱き、友の墓をめぐりながら鎌倉の寺々を歩いたりもしていた。短篇『岩に菊』の中には、こんな一文も読める。
「私の友人や知人はすでに幾人も死んだ。その人たちの墓が出来、私はいろいろの形の石の墓を見ることが重なつた。墓の前に立つて故人を思ふから、おのづとその石の形についても思ふやうになる」
昭和47年(1972)4月16日、川端は晩年の仕事場とした逗子のマンションの一室で、突然のガス自殺を遂げる。72年と10か月の生涯。その日、空は晴れ渡り、由比ヶ浜から望む夕日は、いつにも増して美しかったという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。