今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「あなたを忘れる手だてといへば/あなたに逢つてゐる時ばかり/逢へばなんでない日のやうに/静かな気持でゐられるものを」
--竹久夢二
竹久夢二は明治17年(1884)岡山生まれ。華やかな女性遍歴を重ねた芸術家だった。彼女たちをモデルに独特の愁いを帯びた多くの日本画を描き、しばしば傍らに詩を添えた。これら「夢二式美人画」を仕上げる筆の運びは軽妙で、めったに描き直しをしなかったといわれる。
先日、岡山の夢二郷土美術館が、夢二の油彩画『西海岸の裸婦』のX線調査の結果について、興味深い発表をしていた。X線画像と完成作とを比較により、初めは下腹部に布をかけようとして、のちに全裸に描き直したことが判明したのだ。この裸婦画は、夢二が米国西海岸から欧州に遊学していた頃の作品と見られ、夢二が西洋人の肌の美しさをどう描き出すかということに葛藤したことがうかがえるという。
美人画を描き馴れている夢二にしてこうなのだから、ひと口に、女性を描くといっても、奥が深いのであろう。
さて、華麗な女性遍歴を持つ夢二にも、「永遠の恋人」と呼んでいいような存在がいた。その名は笠井彦乃。夢二は彼女を「しの」と呼びならわし、愛し続けた。
夢二が笠井彦乃と出逢ったのは、大正3年(1914)10月半ば。当時の彦乃は、女子美術学校に通う学生。かたや夢二は数え31歳。新進の画家として売り出し中であった。
初め彦乃は、ひとりの画学生として夢二に教えを仰いだ。師への尊敬の念がいつしか恋心に変じていった。夢二はすでに数多の女性たちと浮名を流していた。離婚しながら同棲を続け、子をなしている女性もいた。だが、この時ばかりは勝手が違った。彦乃は夢二にとってまるで聖母マリアのよう。日記にも、「視線のうちに入れておくだけで私の心は充されてゐた」と綴る存在だった。互いに秘密の手紙を交換し、プラトニックな逢瀬を重ねた。
掲出のことばは、夢二自作の詩『古風な恋』の全文。行間にゆらめくのは、彦乃の面影か。
やがて夢二と彦乃は深く結ばれるが、彦乃の父親の強い反対があって、仲は引き裂かれる。京都へ逃れた夢二を追って、彦乃が「絵画修業のため」と周囲をたばかって西下するのは、大正6年(1917)6月。それから翌年にかけ、夢二の息子の不二彦もまじえ、3人で、京都を拠点に北陸の温泉郷を廻って作品展を開くなどして過ごした。夢二、数え35歳にして掴んだ「人生最良の日々」だった。
だが、事実を知った彦乃の父親は、無理やり彼女を連れ戻した。彦乃の体は、この頃から結核に蝕まれていた。彦乃は再び家からの脱走を試みるも、病に倒れて入院。以後は父の厳しい監視下で夢二との面会も一切叶わぬまま、大正9年(1920)1月、数え25歳の若さで永眠する。
時は流れ、昭和9年(1934)9月、夢二は信州の富士見高原療養所で、ひっそりと逝く。50年に満たぬ生涯。いつも薬指にはめていたプラチナの指輪だけが、形見として遺された。息子の不二彦がその内側を覗くと「ゆめ35しの25」の刻印があった。
夢二の人生最良の日々と、彦乃の早世が、そこで切なく交差していて、不二彦の胸をしめつけた。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。