「青春18きっぷ」だけを使って行ける日本縦断の大旅行を企てた、58歳の鉄道カメラマン川井聡さん。南九州の枕崎駅から、北海道の最北端・稚内駅まで、列車を乗り継いで行く日本縦断3233.6kmの9泊10日の旅。
いよいよ最終日の10日目は北海道、旭川駅を出発、ゴールの稚内駅を目指す。
《10日目》旭川駅 11:20~名寄駅 12:52
10日目の夜明けは雨。気づいてみれば朝から雨が降っているのは初日と今日だけ。もちろん意味は無いけど、なんとなく意味ありげに感じられてしまう。荷物の中にカサを入れていないし、小雨なので小走りに旭川駅へ向かう。
町の再開発で駅舎高架に改築された旭川駅。駅舎の位置もセットバックさせたため、駅前のスペースはぐんと広がった。
熊本や富士宮など「水がおいしい」を自負する大都市は多いが、旭川もその一つ。石狩川源流などを水源とする水道で、水が美味しいのだ。でも残念ながら、旭川の駅には水を飲めそうな水道施設がなかったので、仕方なくペットボトルを購入。せっかくなら駅に水のおいしさを実感できる水飲み場のような設備があればなあ、とおもう。
雪対策に大屋根に包まれた旭川駅。天井が高いのはディーゼルの排煙対策もあるのだろう。大屋根一杯にエンジン音が響いていた。
旭川近郊までは利用者もいるだけに少しだけ本数が多い。健康器具のCMで有名になった比布(ぴっぷ)駅までの区間運転は、一日4往復が走っている。
旭川駅ではホームで駅弁を売っている。駅に併設されたコンビニなどでお弁当を売るようになって「駅弁」の定義はだんだん難しくなってきた。昔から伝統的に売ってるお店というと、宗谷本線ではもう旭川だけ。台車に乗せて販売するスタイルだが、ホームで駅弁業者が販売をするというのも、今ではかなりレアなことになってしまった。
でも、ここは札幌行きの特急列車があるおかげか駅弁の種類も豊富。タイミングが良かったのか、こんな普通列車の発車でも売りに来てくれている。最近売り出したばかりだが、人気商品という鮭の親子丼「イクラ盛弁当」を、この旅最後の駅弁として購入。1200円。
ちなみに、ずっと旭川駅の駅弁が最北かと思っていたが、
塩狩駅で上り列車と交換。三浦綾子の小説の舞台となった塩狩峠は、宗谷本線の分水嶺だ。
宗谷本線は、道内を流れる二つの大河に沿っている。旭川から蘭留付近までは石狩川水系。塩狩峠を越えると天塩川水系となる。天塩川を離れた最北部はサロベツ原野を北上する。
蒸気機関車の時代、塩狩駅は峠を登ってきた列車が一休みし、反対列車と交換する止まり木のような駅だった。蒸気機関車も遙か昔に消え、駅も無人化されたが交換施設はいまも健在だ。
SL華やかなりしころ、この駅前にあったユースホステルは鉄道ファンが集ったところだが、2000年代初頭に廃業してしまった。近年、新たなオーナーによりほぼ同じ場所にユースホステルが復活。塩狩峠の旅を楽しむ旅行者の宿となっている。
やがて、全国有数のヒツジの数を誇る士別駅に停車。探し方が悪かったのか、車窓から牧場を見つけることはできなかった。もっとも士別市の面積は東京23区の倍ほどもある。見つかる方が奇跡かもしれない。
ホンモノの羊を見ることはできなかったが、士別駅ホームでは、TVアニメの「ショーン」と同じ、サフォーク種の羊イラストが歓迎してくれていた。
風連駅に停車。沿線には、空き地の目立つ駅が多い。かつては貨物車や機関車が発車を待っていたのだろうが、いまは線路を剥がされた空き地を長い跨線橋がまたいでいる。
乗客の少ない宗谷本線だが、俗に「南線」と呼ばれる名寄までは、結構混雑している。
向かい側に座った男性は、大きなリュックが小さく思えるいいガタイ。休みの日には列車に乗って各地の山を訪れるという。
12時52分 名寄駅到着。ホームの屋根はガッシリしていて、大雪にも耐えられそう。天井からは巨大な時計がぶら下がっている。
最近は駅で時計を見かけることが少なくなった。携帯電話で時間を見る人が増えたせいか、それとも単に予算の都合なのかはわからない。
でも考えてみれば「時間」は鉄道の商品の一つなのだ。日本最北の『本線』で、いまもこんな時計が現役だ。
センターのロゴマークはJR北海道ではなくメーカーのもの。もしかしたら、国鉄時代から時間を告げているのかもしれない。
次の列車の発車は約2時間後。この時計が2時半を示すまで、名寄の市街を眺めることにする。
動いている時計と対照的に、時が止まってしまったホームがある。駅の南側に位置する旧深名線の0番ホーム跡。宗谷本線の下りホームと同じ面に作られている。
深名線の廃止により使われなくなったのかと思ったが、それ以前に使われなくなくなっていたのだという。駅から伸びる廃線跡は、草むしたまま残っていた。
名寄は鉄道で発展してきた町である。名寄駅舎はその風格を感じさせる。ここは宗谷本線の中心とも言える大きな中間駅だ。この駅から南北を貫く宗谷本線の他、東へむかう名寄本線、西へ向かう深名線の列車が発着していた。それらの車両をメンテナンスする車両基地や保線など鉄道員とその関係者が多く住んでいた町である。
現駅舎が建設されたのは昭和2年。正確なデータは解らないが、おそらく北海道でも現役最古の部に属するのではないだろうか。
正面には雪国らしい腰折れの小屋根が3つ並び、その中央は時計台になっている。中央には風除け室が設けられているが、全体にいかにも北海道らしい。2016年まであった売店や旅行センターも今はなく寂しいばかり。待合室にうるのも落ち着かないので、駅前に作られた交流センターへ。椅子とテーブルがあり駅よりこちらの方が落ち着くというのもちょっと残念。
さあ、駅に戻って、いよいよ最終目的地、稚内行きの汽車に乗り込もう。