今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「田地ノ糞(こやし)マデ舶来ノ品ヲ用イテハ、ドウシテ日本ガ立チ行クゾ」
--佐田介石
遠路ようこそのお運び、ありがとう存じます。本日も一席おつきあい願います。
え~、ご存じの通り、明治は文明開化の時代。欧米からの目新しい文明が、どんどんどんどんと入ってまいります。ところが、その流入があまりに急激ですから、流れにのっかろうとする者、無闇に反発する者、庶民の間にはさまざまな混乱が生じます。人それぞれですからね。
混乱は戯れにお座敷で歌われる都々逸にまで影響し、守旧派と開明派が交錯します。守旧派は難解な漢語を入れて、
「/~おまえのこころを諒察するに、戮力する気はありゃせまい」
と、うなります。「諒察」までは、まあ分かるとして、「戮力」なんて難しいですね。読み方もわからない。「りくりょく」と読んで、力を合わせることを意味するそうです。
対する開明派は、珍妙な英語を入れ込んで、
「/~ナイトデートで待ちあかしても、コットした気か今に来ず」
なんてやり返す。
「おいおい、そのナイトデートってのは何のことだい?」
「ナイトは夜で、デートは昼間だから、夜も昼もってことさ」
「へえ。じゃ、コットってのは?」
「カットとも発音する。要するに、縁切りさ」
「なんだ、そっちも戮力する気はなしか」
てな具合。守旧も開明も、どっちにしろ、女性にふられちゃってるわけですね。それに気づいてたちまち、「それじゃあ、一緒に自棄酒飲もうか」なんて、お互い仲よくなっちゃってる。単純なもんでございます。
まあ、こんな争いもお座敷あそびにとどまっているうちは大したこともございませんが、もうちょっと深刻な場合もございます。その一例が、肥後出身の僧侶・佐田介石(さた・かいせき)が唱えた「ランプ亡国論」でございましょう。
そこで、本日のお題は「ランプ亡国論」でございます。
あっ、お間違いのないように。けっして「トランプ亡国論」ではありませんよ。うっかりして、海の向こうの白い家の主からツイッターとやらで攻撃されては叶いませんからねえ。
そもそもランプが日本国内で使われはじめたのは明治5年前後と申します。それ以前は、種油(たねあぶら)を燃やして明かりにする行灯(あんどん)が主流でございました。両者の明るさには歴然たる差があり、下宿で勉学にいそしむ書生さんは、ランプは明る過ぎて困ったなんてエ話も伝えられております。
さて、佐田介石の「ランプ亡国論」。介石によれば、ランプの大害は16にも及びます。
「一ツニ毎夜金貨大減ノ害。二ツニ国産ノ品ヲ廃物トナスノ害。三ツニ……」
長くなるのであとは略しますが、要するに、ランプを使用することは、金貨の海外流出を招き、行灯、燭台、種油、ロウソクなど、種々の国産品の需要を減らし、不況のもととなる。のみならず、これらの生産に従事していた農工業者を失職させ、石油のために火事は10倍増、材木の値は上がって貧乏人は家の再建もままならぬ。
これだけの大害あるランプを輸入し使用することは、「正宗ノ刀ヲ抜身ニテ抱イテ寝ル」ようなもの、と介石は訴えるのであります。
さらに、種油の生産が止まれば、その搾り粕を肥料にすることもできなくなり、肥料用の鳥の糞まで輸入に頼るようになるとして、こんな叫び声も上げました。
「田地ノ糞(こやし)マデ舶来ノ品ヲ用イテハ、ドウシテ日本ガ立チ行クゾ」
今からすると、かなりこじつけの印象もございますが、本人は大まじめに国の将来を案じている。「憂国の僧」でございます。
すでに60の坂も半ばにさしかかった老体に鞭打って、介石はランプのみならず、鉄道、西洋料理など舶来品の害毒を説いて、全国各地を回ります。一度は長野で病に倒れますが、口を突いて出るのは「天下危急累卵より甚だし。たとえ高座の上に死するとも、予が本望なり」なんてエ台詞。まるで、私ら噺家の鑑(かがみ)みたいな覚悟の持ちようです。病を振り払うようにして床を蹴り、さらに遊説をつづけて参りますが、ふた月後、とうとう越後高田で帰らぬ人となりました。
ときに明治15年の師走。翌年11月には、かの鹿鳴館が落成し、連日連夜の舞踏会。介石の思いとは裏腹に、明治日本の欧化政策に、ますます拍車がかかってまいるのでございます。そんな様子を、あちらの世で、介石はどんな思いで見つめていたでしょうか。
あれっ。おいおい、そこ行く書生さん。なんだか、都々逸かなんか口ずさんで、ご機嫌でお出かけだね。あんたも、ランプが明る過ぎて勉強を中断した口かい? えっ、なんだって?
「/~おまえの心をランプで照らし、恋の夜学がしてみたい」
おやおや。そんな軟派な夜学ならオイラもしてみたい。ランプの明るさで、さぞや解析(介石)もすすむでしょう。
おあとが、よろしいようで。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。