今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「かにかくに祇園(ぎおん)はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」
--吉井勇
西郷隆盛の友人に、吉井友実(ともざね)という薩摩人がいる。西郷隆盛、大久保利通らとともに尊皇攘夷運動に取り組み、明治維新後は元老院議員や枢密顧問官などを歴任した。
歌人の吉井勇は、この吉井友実の孫だった。
吉井勇の第一歌集は明治43年(1910)9月、満24歳となる直前に上梓された。題名は『酒(さか)ほがひ』。紐解けば、祇園や京都の色町を舞台に、酒と恋にまつわる人間の悲哀を歌った作品が多く盛り込まれていた。その代表が掲出の歌。これはのちに祇園白川畔の歌碑にもなった。
ちなみに、「ほがひ」は「祝い」で、「酒ほがひ」は酒宴をはり祝
うことを意味する。歌集にはほかに、次のような歌々があった。
「木屋町の酔へるがごとき夜のいろに見恍(ほ)れて君を忘れし子なり」
「香煎のにほひしづかにただよへる祇園はかなし一人歩めば」
「いさぎよくわれの心を擲(なけう)たむ祇園の一夜見し君のため」
「女紅場の提灯あかきかなしみか加茂川の水あおき愁か」
この歌集は、瞬く間に作者を頽唐文学の先駆者に押し上げた。その評価に押されるように、吉井勇はいよいよ酒色へ沈殿していく。伯爵の父・幸蔵はそんな息子を見限ることなく、「好める道なら仕方がない。然し其の道に秀でよ」と、支援していたという。
大正10年(1921)5月、吉井勇は最初の結婚をした。相手は伯爵柳原義光(歌人・柳原白蓮の兄)の次女の徳子。しかし、夫たる吉井勇の放浪癖と、社交好きの妻・徳子のスキャンダルが掛け合わされれば、夫婦の間が長続きするはずはなかった。ほどなくふたりは離婚し、吉井勇は世捨て人のように土佐に隠棲した。そのまま埋もれ死にするつもりだった。
そんな吉井を救い出し再生させたのは、浅草の料亭の看板娘だった国松孝子だった。ひそかに思いを寄せていた孝子は単身、土佐に吉井を訪ね、やがてふたりは結ばれる。昭和13年(1938)10月には、夫婦して京都に戻って居を構え、穏やかな日々を過ごしていく。
「京に来てわが世はげしき起伏(おきふし)を思ひかへしぬ秋のこころに」
「われ老いて心やうやく和めるや世をいきどほることすらも稀」
「京に老ゆ如意嶽ちかきわびずみもあと二三年のことにあらむか」
晩年の吉井は歌づくりの他、都踊りの歌詞を書いたり、『西鶴好色全集』の編集・刊行にも尽力したという。
昭和35年(1960)11月、74歳で没。建仁寺の僧堂でおこなわれた告別式の際には、式場まで100 メートル余りの道の両側に、喪服姿の祇園関係の女たちがぎっしりと立ち並び、会葬者を驚かせたという逸話も残る。
京都を愛し、京都に愛された歌人であった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。