文/萩原さちこ
先日、滋賀県余呉町にある堂木山砦、神明山砦、茂山砦を歩いてきました。これだけでピンときた方は、かなりの城マニア、歴史ファンです。そう、豊臣秀吉と柴田勝家が激突した1583(天正11)年の「賤ヶ岳の戦い」の舞台となった砦です。
賤ヶ岳の戦いは、余呉湖一帯に両軍がいくつもの砦を築いて戦った陣城合戦です。秀吉本隊が岐阜へ出陣した隙をついて、勝家方の佐久間盛政が大岩山砦と岩崎山砦を奇襲。秀吉によるまさかの“大返し”により盛政隊は慌てて撤退するも、後方支援であるはずの前田利家隊が突然後退し、さらには羽柴秀長の攻め込みにより盛政隊は総崩れとなる……。勝家軍の壊乱状態にいたる戦いの経緯は、よく知られるところでしょう。
盛政が攻め入った大岩山砦と岩崎山砦は、余呉湖南側の賤ヶ岳砦から余呉湖の東側に沿うようにして、北に派生する尾根に築かれた秀吉軍の砦です。これらは秀吉軍にとって第2防衛ラインで、後方には実質的な本陣であった田上山砦がありました。
第1の防衛ラインとなったのが、余呉湖北側の尾根、西から東へのびる丘陵上に築かれた神明山砦や堂木山砦、そして北国街道を挟み対面の東野山砦を結ぶラインです。秀吉は、越前から侵攻してくる勝家軍を近江平野で食い止めるべく、北国街道の封鎖を重視していたことがわかります。
結果的には、勝家軍の戦略勝ち。本陣のある玄蕃尾城から西山稜上に、軍道を構築していました。盛政隊も、在陣していた行市山砦から秀吉の第1防衛ラインを迂回するようにして、大岩山砦へと向かっていったわけです。
賤ヶ岳の戦いにおける砦群は、それぞれの構造や特徴もさまざまで、その違いを知り役割を探るのも楽しみ方のひとつです。しかし、実際に歩きながら砦の配置や連携を確認し、構築の意図や機能性を推察するのもたまりません。対峙する両軍の距離や軍勢の動きを思い描き、戦略を想像しながら歩くのも楽しいもの。合戦の舞台を俯瞰的に見ながら歩くことは、城を単体で読み解くのとは違う魅力があります。
※賤ヶ岳の砦群は、いずれもそれなりの悪路です。十分な装備と準備の上、山城歩きに慣れた方とお出かけください。賤ヶ岳砦はかなり遺構の改変がされているものの、賤ヶ岳古戦場として賤ヶ岳リフトで上れる観光スポットとなっています。賤ヶ岳リフトは運休日があるためご注意を。
文/萩原さちこ(はぎわら・さちこ)
城郭ライター・編集者。小学2年生で城に魅せられる。
写真提供/八巻孝夫
【参考リンク】
※ 長浜・米原・奥びわ湖観光サイト http://kitabiwako.jp/