はじめに ―「本圀寺の変」とはどのような事件だったのか
「本圀寺(ほんこくじ)の変」は、永禄12年(1569)正月、三好三人衆が京都の本圀寺を襲撃した事件のことです。
このとき本圀寺には、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかが・よしあき)が仮御所を置いていました。つまり本圀寺の変は、単なる寺院襲撃ではなく、新たに成立した義昭政権そのものを揺さぶる軍事行動だったのです。
この事件の背景には、将軍家をめぐる争い、三好一族内部の対立、そして織田信長の入京によって大きく変わった畿内の政局がありました。
本圀寺の変は、信長が義昭を奉じて京都に入ったあとも、畿内の情勢が決して安定していなかったことを示す出来事として重要です。
この記事では、「本圀寺の変」についてご紹介します。

かつては六条にあったが、昭和44年(1969)山科区御陵に移建されている。
「本圀寺の変」はなぜ起こったのか
発端は、永禄8年(1565)5月19日に起きた室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)の急襲・殺害にさかのぼります。
三好三人衆と松永久秀らは二条御所の義輝を襲い、義輝は奮戦の末に暗殺されました。続いて義輝の弟・周嵩も暗殺されますが、もう一人の弟である覚慶(かくけい)は脱出に成功します。覚慶はのちに「義昭」と名乗りました。
その後、義昭は若狭(現在の福井県南西部)・越前(現在の福井県北部)を転々とし、最終的に織田信長を頼って美濃(現在の岐阜県南部)へ入ります。
一方、畿内では三好三人衆が足利義維(あしかが・よしつな)の子・義栄(よしひで)を擁立して14代将軍としましたが、三人衆と松永久秀は対立し、情勢は不安定なままでした。
永禄11年(1568)9月、信長は義昭を奉じて入京します。これにより三好三人衆はいったん阿波(現在の徳島県)へ退き、義昭は同年10月に将軍となりました。
このとき、三好長慶(みよし・ながよし)の養子であった義継(よしつぐ)と松永久秀は、信長に降伏しています。
その後、信長が畿内平定をひとまず終えて美濃へ帰ると、三好三人衆はそれを勢力挽回の好機と見ます。12月に和泉(現在の大阪府南西部)へ上陸し、京都へ進軍。翌年正月、京中に放火しながら本圀寺を包囲しました。
つまり本圀寺の変は、新将軍・足利義昭と、それを支える織田信長の体制に対する反攻として起こったのです。
関わった人物
【義昭・信長方】
足利義昭

室町幕府15代将軍。もとは義輝の弟で、僧籍にあった覚慶でした。兄・義輝の死後に還俗し、信長の後ろ盾を得て入京、将軍となります。本圀寺は義昭の仮御所でした。
織田信長

義昭を奉じて入京し、将軍就任を実現させた人物です。
「本圀寺の変」が起きたときは京都を離れていましたが、信長の入京と義昭擁立がなければ、この事件自体も起こりませんでした。三好三人衆にとっては、打倒すべき新秩序の中心人物です。
細川藤賢(ほそかわ・ふじかた)
義昭方として本圀寺の防衛にあたった武将です。三好三人衆の攻撃に対し、寺内で防戦に努めました。
明智光秀(あけち・みつひで)

義昭・信長方の武将で、本圀寺の防戦に参加しました。この時点では、義昭を支える側の有力な実務・軍事担当の一人として動いています。
細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)

本圀寺救援に駆けつけた人物です。桂川付近で三好三人衆と戦い、その撃退に貢献しました。
三好義継(みよし・よしつぐ)
三好長慶(みよし・ながよし)の養子で、のちに信長方に属した人物です。「本圀寺の変」では救援側として出陣し、三好三人衆を破る側に回っています。
池田勝正(いけだ・かつまさ)
細川藤孝らとともに本圀寺の救援に駆けつけた武将です。桂川付近での戦闘で三好三人衆の軍を破りました。
【三好方】
三好長逸(みよし・ながやす)

三好三人衆の一人。足利義昭と信長によって再編された京都政局に反発し、本圀寺包囲に加わりました。
三好宗渭(みよし・そうい)

三好三人衆の一人。足利義輝殺害後の畿内政局を主導した勢力の一員であり、本圀寺の変でも中心的役割を担いました。
石成友通(いわなり・ともみち)

三好三人衆の一人。長逸・宗渭とともに行動し、義昭体制への反攻を図りました。
この事件の内容と結果
永禄11年(1568)9月に信長が義昭を奉じて入京し、10月には義昭が将軍となります。ところが信長がいったん美濃へ帰ると、阿波へ退いていた三好三人衆が反撃に出ました。
12月、三人衆は和泉に上陸し、翌年正月4日には京都へ入って各所に放火します。
さらに正月5日、義昭の仮御所であった本圀寺を包囲しました。

本圀寺は中世以来、洛中法華二十一本山の一寺として大きな寺勢を持ち、法華一揆の拠点の一つでもありました。堀を掘るなど要塞化されていたため、単なる宗教施設ではなく、防御力を備えた空間でもあったのです。
そのため、細川藤賢や明智光秀らは寺内で防戦し、三好方は容易に攻め落とせませんでした。
翌6日には、三好義継、池田勝正、細川藤孝らの援軍が駆けつけ、桂川付近で三好三人衆の軍を大いに破ります。
これにより三人衆は再び阿波へ退却し、本圀寺の変は義昭・信長方の勝利に終わりました。
「本圀寺の変」その後
本圀寺の変によって、義昭政権は当面の危機をしのぎました。
しかし、これで畿内が完全に平定されたわけではありません。三好三人衆はその後もたびたび信長と戦い、畿内周辺における反信長勢力の一翼となっていきます。
また、本圀寺そのものも歴史の中で重要な役割を担い続けました。もともと本圀寺は京都の日蓮宗を代表する大寺であり、戦国期には要塞化された寺院でもありました。義昭が仮御所を置いたのも、そうした規模と防御力を備えていたからでしょう。

さらに時代が下ると、本圀寺は豊臣秀吉から山城国(現在の京都府南部)菱川村に朱印地177石を与えられています。
また、秀吉の姉・とも(日秀尼)が立像堂や大客殿の建立に尽力したことも伝えられています。本圀寺の変そのものに秀吉は関わっていませんが、のちに豊臣家がこの寺の復興と維持に深く関わったことは注目されます。

大梵鐘には、秀吉の両親の法名や木下家一族の法号が並ぶ。
ともは、子の秀次が秀吉に切腹させられたのを機に、本圀寺で出家している。
まとめ
「本圀寺の変」は、足利義昭の将軍就任後もなお、京都の政治秩序がきわめて危ういものだったことを物語っています。
信長の上洛後に始まる新しい時代が、決して平穏に幕を開けたわけではないことを示す重要な事件だったといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
協力/本圀寺
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











