ハービー・山口(写真家・75歳)
─アーティストから市井の人まで、日々カメラを向ける写真家─
「生への憧れを持ち、生きる讃歌を伝えられる作品を撮り続けたいと思っています」

──温かみのあるポートレートが人気です。
「ポートレートは自分を映す鏡でもある、と思っています。去年の4月、日本写真芸術専門学校の校長に就任しましたが、若い人たちには、写真技術の探究だけでなく、人間性を学び、高めることを奨励しています」
──少年時代は病弱だったそうですね。
「生後2か月ちょっとで腰椎カリエスを患いました。痛くてひとりで立ち上がれない、歩けない体で4〜5歳まで過ごし、その後はコルセットをして小学校に通いましたが、腰の痛みやだるさがあり体育の授業はずっと見学です。からかわれたり、いじめられたりして、疎外感や孤独感に苛まれていました」
──そんな頃に音楽との出会いがあった。
「小学校5年か6年のとき、家の近所の大森駅前で、地元の中学か高校のブラスバンド部の演奏を偶然に見かけて、とても感動したんです。心があんなにうきうきしたのは初めてで、音楽って凄いなと思いました。自分もやってみたいと思い中学に上がるとブラスバンド部に入り、フルートを手にしました。
ところが、ひどい貧血があって朝起きられないから早朝の練習についていけない。半年後に挫折して退部し、失望感から不登校となって半年ぐらい引きこもっていました」
──引きこもりを脱したきっかけは。
「奇跡的に進級した中学2年のとき、新しい担任の先生がずっと黙っている僕の肩に手を回し、くしゃくしゃの笑顔で“おい、山口、何か言えよ”と抱き込んでくれた。先生が自分に笑顔を向けてくれるなんて、初めての体験です。心が楽になって学校へ行けるようになり、同級生の勧めで写真部に入りました。
写真は個人プレーだし早朝練習もない。音楽より写真のほうが体力的に合っているかな、という実感がありました。撮りたいテーマは、すでにあったような気がします。初めてブラスバンドを見て勇気づけられたときの、あのポジティブな感覚。ひとが元気になり、自分が元気になるような写真を撮っていきたいと。
写真部に入って何か月かで、漠然と、将来はプロになれたらいいなと思いはじめていましたね。憧れのカメラであるニコンFがほしくて仕方なくなり、高校進学前の春休み、友だちの紹介で大田区にあったニコンの下請けの町工場でアルバイトして、どうにか手に入れることができました。高校でも写真部に入部し、2年生で部長になりました」
──その頃から体調にも改善が見られた。
「10代の終わりに、医師から“だいぶ骨も固まってきたし、あまり激しい運動をしなければ、背骨は曲がったままだけど、このまま生きていけるんじゃないかな”と言われ、生きる希望が持てました。絶望の中に橋がかかった思いでした。報道写真に興味がありましたが、高校卒業後は一般の4年制の大学の経済学部に進学しました。写真は独学でもなんとか学べるし、それよりも社会や人々をもっと理解することのほうが大切だと考えていました。
大学時代は、当時盛んだった学生運動や返還前の沖縄を撮影する一方、近所の神社の祭礼などにもカメラを向けました」
──大学卒業後、ロンドンに向かいます。
「好きな音楽があるロンドンで、写真家として生きていけるきっかけを掴みたいと思ったのです。観光ビザが切れるまで半年の滞在予定でしたが、向こうの水が合ったんでしょうね。病気で得られなかったいろんなものを、このロンドンの地で、生まれ変わったような気持ちで味わいたい。半年では短すぎる、もっと滞在していてもいいんじゃないかと思って、ちょっとずつ引き延ばし、結局、約10年ロンドンにいることになりました」
──一時期、役者として舞台にも立った。
「ツトム・ヤマシタさんという、当時のヨーロッパのロック音楽界のスターがいて、その人の率いる演劇集団レッド・ブッダのオーディションを友人と一緒に受けたんです。渡英した翌年、1974年のことです。ロンドンに行ったらなんでも経験してみようという破れかぶれな気持ちと、もし採用されればビザがのびるし、若干のお給料ももらえるぞ、という思惑がありました。合格して役者となり、ロンドンで2か月、その後ヨーロッパ各地を巡回し、1年ほどで計100回の舞台を踏みました。この間、二足のワラジを禁じられ、カメラはほとんど手にしていませんでした」

「“撮りたいものは全て撮るんだ。それがパンクだろ”と励まされた」
──劇団退団後、本来の写真の道に戻った。
「退団からひと月くらいして、ある有名なギャラリーで、イギリス人の同世代の写真家と知り合いになりました。“遊びにおいでよ”と言われて行ってみたら、10人の若い写真家がテムズ河畔のでっかい倉庫に住んでいて、『QUALITY OF LIFE(クオリティ オブ ライフ)』と名づけた写真展を3年がかりで準備していました。
2年半後に開館予定の国立劇場で開催する大がかりな写真展で、スポンサーがいて、家賃も負担してくれるし、フィルムや印画紙など、必要なすべての資材が供給されるという。“このグループに入らないかい”と誘われ、仲間に入れてもらいました。幸運でした。
彼らは皆、ライカを使っていましたが、僕は唯一の日本人メンバーとしてニコンで対抗して、誰よりも素晴らしい写真を撮ってやろうと意気込んでいました。被写体は9割9分、ロンドンの街と市井の人々の姿でした」
──多くのミュージシャンも撮影しています。
「劇団を解散したヤマシタさんが、新しいアルバムをつくるから、リハーサルやレコーディング風景を撮りにこないかと連絡をくれたんです。そこには、『サンタナ』のドラマーのマイケル・シュリーヴ、『トラフィック』のスティーヴ・ウィンウッド、ギタリストのアル・ディ・メオラといった、当時のトップクラスのミュージシャンが参加していて、自由に写真を撮らせてくれた。これが僕のミュージシャンとの関わり合いの始まりでした」
──その後も不思議な出会いがあった。
「最たるものは1980年頃、フロアをシェアしていた仲間の中にいたジョージでしょう。まだ20歳になるかならないかの美しい青年でしたが、このジョージがのちに人気パンクバンド『カルチャー・クラブ』のボーイ・ジョージになったのです。地下鉄のセントラル・ラインで偶然に『ザ・クラッシュ』のジョー・ストラマーと出会ったのも、同じ頃です。
意を決して声をかけ“写真を撮ってもいいですか”と尋ねると撮らせてくれて、最後、ホームで別れ際に僕の方を振り返って“撮りたいものは全て撮るんだ。それがパンクだろ”と言ってくれた。勇気をもらいました」

──帰国後も音楽界と深い縁が続きました。
「写真集やCDジャケット、コンサートのパンフレット、雑誌取材などで、BOØWY、尾崎豊さん、吉川晃司さん、松任谷由実さん、福山雅治さんといった方々を撮影させていただきました。布袋寅泰さんのソロアルバムのために作詞をする機会にも恵まれた。
こんなこともありました。あるとき谷村新司さんの撮影で、助手として高校生の長男を連れていった。撮影後“大人になる前の彼に何か一言いただけませんか”とお願いしたら、谷村さんは“私たちが目で見ているものは、世の中のたった10%のものでしかない。それを忘れないで”と。含蓄深い言葉でした。その見えない希望やときめきを写していくのが、写真家の仕事だと思いました。長男はその後、内科の医師になりました」

──写真嫌いの俳優を説得したこともある。
「ドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースの一行が、1991年に映画『夢の涯てまでも』の撮影のため来日しました。そのとき僕は頼まれてスチールカメラを担当したのですが、主演のウィリアム・ハートは大の写真嫌いで知られていて、まったく撮らせてくれない。
僕は思案の末、箱根のロケ現場で、自分がかつてロンドンに住んでいたころ舞台役者をしていたことを打ち明け、“私は撮ることと撮られることの180度違うことを経験しました。これはとても大切な経験だと思いました”という話をした。
すると相手も理解してくれて、“世界でお前ひとりだけ、自由に俺を撮っていいぞ”とお墨付きをいただいた。監督やスタッフは驚きながら、非常に喜んでいましたね」
「積み重ねてきた仕事や経験が、人生の第3のロケットの燃料となる」

──メディア出演や講演活動も多いですね。
「高齢の方たち向けの講演では、人生には3つのロケットがあるという話をよくします。
第1のロケットは青春。第2のロケットは社会に出てからのもの。これが点火して数十年が経過すると燃料が切れ、その先は老後という下り坂が待ち受けている。ところが、もうひとつ第3のロケットがあって、それまでやってきたことが花開いて、人生が思いも寄らぬ幸せな方向に再上昇することがある。
僕もそれを経験しました。ある日、神田にある写真集や美術書を専門とする古書店に行くと、女性店員の方がちょうどお店に居合わせたフランス人を紹介してくれたのです。
これがきっかけで、僕は67歳で初めてパリで個展を開けました。今まで積み重ねてきた仕事や経験が、知らず知らずの間に人生の第3のロケットの燃料となり、偶然にそのロケットが点火されると、その先に思いも寄らない素敵なことが待っている。そんな幸運は誰にも訪れ得る。だから、日々を一生懸命に積み重ねることが大切だと思います」
──継続と出会いからつながりが生まれる。
「人と人とのつながりといえば、忘れられない出来事があります。2020年12月の人見記念講堂での『大貫妙子 シンフォニックコンサート』で、ゲスト参加していた坂本龍一さんと34年ぶりに再会しました。1980年代初め、YMOのイギリス公演のときの初対面から、日本での雑誌取材などで何度となく撮影させていただいていて、久しぶりの対面でした。このときピアノで3曲弾いたのが坂本さんが聴衆の前で生演奏する最後の機会となったのですが、僕は楽屋でも写真を撮らせてもらっていました。やがて、坂本教授はタクシーを呼んで引き揚げることになり、扉を開けて表へ出ようとして体は外へ出ている、だけどドアにかけた手だけは残して3秒くらい静止したんです。そのとき“あっ、教授、俺に撮れって言ってるんだ”と心の声を聞いて、慌ててピント合わせてシャッターを切った。
それが僕へのお別れの挨拶だったんですよね。ハービーだったら、これを撮ってくれるよね、それで自分の生き方を後世に伝えてくれるよねと。坂本教授が写真家ハービーにくれた、最後のポーズだったと思います」
──自身の最期を意識することはありますか。
「死を意識して毎日を大切に生きるというのも大事でしょうが、僕はその裏返しで、生への憧れ、生きていくことへの憧憬を根底に持ちたいと思っています。いずれ誰でも亡くなってしまうわけですが、“ああ、生きてみたいな”と思わせるエネルギーを内包する、生きる讃歌を伝えられるような作品を撮り続けたいと思っています。一日の終わりに、今日は良い写真が撮れたという満足感とともに眠りにつき、翌朝、今日も良い写真が撮れるだろうという希望とともに目覚める。それが僕の願いであり、何よりの幸せです」

ハービー・山口(はーびー・やまぐち)
1950年、東京生まれ。大学卒業後、ロンドンへ向かい10年を過ごす。折からのパンクロックやニューウェイブの活況に遭遇し、生きたロンドンの姿と多くのミュージシャンを撮影する。帰国後、有名アーティストから市井の人々にまでカメラを向け、温かく清楚な作風で好評を得る。随筆家としても活躍。著作に『女王陛下のロンドン』『日曜日の陽だまり』『人を幸せにする写真』など。
※この記事は『サライ』本誌2025年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。
(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/鹿野貴司)
