今村翔吾(作家、書店経営者・40歳)
─書店の未来や文学賞のあり方を模索しながら書き続ける直木賞作家─
「本は僕の原点であり、主君。どんなに滅びゆくと言われようと、忠誠を誓う」

──新たな形態の書店経営を始めました。
「本の街、東京・神保町で2024年4月から『ほんまる』というシェア型書店を開きました。1階と地下1階に設置した大きな本棚を364区画に分け、個人や企業に月額数千円で貸し出しています。“棚主”さんが自由に選書した本やグッズを販売できます。店内に小さな書店がぎっしり集まっているかたちです。書店の減少を食い止めるためには、新しい形態のあり方を自分たちで模索していくべきではないかと考えました。シェア型書店そのものは僕の独創ではなく、全国各地に存在します。戦国武将の武田信玄は“マーケティングの鬼”で、相手のことをとにかく調べまくったうえで戦に臨みました。今回の僕たちもいわば信玄流で、事務所のスタッフ総出で他店について徹底的に調査しました。初月から黒字経営が続き、手応えを感じています」
──大阪と佐賀でも書店を経営している。
「2021年11月から大阪・箕面で『きのしたブックセンター』、2023年12月からJR佐賀駅構内で『佐賀之書店』を経営しています。書店の経営に興味があったわけではなく、作家としての活動の縁と繋がりがあり、たまたま僕のところに“やりませんか”という話が舞い込んできた。大金を投じることになるので悩みましたが、やればやるほど“これは自分の使命なんだな”と感じるようになってきて。つい先日、事務所のスタッフと10か年計画の会議を開いたんですが、『ほんまる』の支店も含め、10年後には30店舗くらいまで広げたいね、という話をしたばかりです」
──なぜ作家が書店経営に情熱を傾けるのか。
「本があったから、本を読んだからこそ今村翔吾は作家になれたわけで、その恩返しがしたいんです。本が自分の原点だし、歴史作家っぽい言い方をすると、僕の主君は本。どんなに紙の本やリアル書店が滅びゆくものだと言われようと、主君には忠誠を誓う武士のようなものです。しかも、やってみると書店経営が創作にもプラスの刺激をくれます。例えば、『五葉のまつり』という作品は、豊臣秀吉の政権下で活躍した石田三成ら“五奉行”の仕事ぶりを、各章ひとりずつの全5章で綴ったものです。僕はこれまで合戦の表舞台で華々しく槍や刀を振るう武士たちを書くことが多かったんですが、戦の勝敗って実は準備段階で8割が決まっている。あの作品は、裏方の存在がいかに大切か、という話。書店経営という裏方、いわば出版業界の兵站部門を体験しているからこそ、このテーマに説得力を込めて書くことができたと思っています」
──新たな形態の文学賞の創設も発表した。
「文学賞もまさに僕の原点のひとつですから、放っておけません。僕は2016年に『九州さが大衆文学賞』の大賞を受賞したことがきっかけとなり、作家としてデビューしました。短編の賞ですから、この時、受賞作は本になりませんでした。ただ、選考委員のひとりである北方謙三先生が、授賞式で出版社の編集者を紹介してくれた。その際、北方先生が“この人は長編が書けるはずだ。3か月もあればできるだろう?”とおっしゃったんです。これは試されているなと思い、“ひと月で充分です”と即答し、有言実行で書き上げた『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』が僕のデビュー作。
残念ながら『九州さが大衆文学賞』は2017年に幕を下ろしたのですが、自分にチャンスをくれた佐賀の地で、文学賞を復活させたかった。どうせやるなら、既存の公募の新人賞では取りこぼしている才能にチャンスを与えるような、新しい仕組みが必要だと考えました。そこで、選考委員を置かず、複数の出版社の編集者が応募作を読んで“これは!”と思った才能に手を挙げる。プロ野球でいうドラフト会議に似た仕組みを取り入れ、『日本ドラフト文学賞』と名づけました。一般的に禁じられている、過去に他の文学賞で落選した作品の応募も認め、たまたま縁がなく埋もれてしまった才能の発掘にも努めます」
──代表理事を務める「ホンミライ」とは。
「書店の経営も文学賞の創設も、出版文化を未来に繋げていくための活動です。中にはビジネスとして進めるには困難なことが多々ある。そうした案件は一般社団法人であるホンミライで進めるようにしています。
僕は絶対に出版業界を、本を諦(あきら)めたくない。今後も多方面から全力で仕掛けていきます。もちろん作家としても後世に残る作品をひとつでも多く残す。“今村翔吾がいたから、出版業界の未来が明るく変わったよね”と言われるようになってから玉砕したいんです」
「1日15時間書く日もザラ。経営者と作家を両方やっているからこそ楽しくできる」

──本にのめり込むきっかけは。
「実家は京都の加茂町(現・木津川市)なんですが、小学5年生の時、たまたま奈良市の古書店で池波正太郎先生の『真田太平記』の全16巻が積まれているのを見つけ、ビビッときたんです。親に“絶対読むから!”とねだって買ってもらい、一気に読破したんです。それから歴史小説の魅力にハマり、古書店や新刊書店、図書館を渡り歩いて手当たり次第に読むようになった。学校の教科書で習うような史実の舞台裏にある、生々しい人間ドラマに魅了されたんでしょう。あまりにハイペースで歴史小説を読み続けていたので、“このままだと読む本がなくなってしまうんじゃないか”と不安になったことを覚えています。だったら自分で書けばいい、と思ったことが、作家になる夢を抱いたきっかけでした」
──実際に書き出すまでは時間がかかった。
「大学卒業後は、ダンスインストラクターの道に進みました。父がダンス教室を開いていて、ダンスを通じて子どもたちをサポートする活動をしていたんです。作家になりたいという夢は周囲に公言していたんですが、僕は長男でしたし、家業を継ぐのは自分だろうという思いもありました。結局、一度も小説を書かないまま20代を終えようとしていた時、大学進学について悩んでいた教え子に、“夢を諦めるな”みたいなことを僕が言ったんです。すると、その子から“翔吾君だって諦めてるやん”と言われてしまい……。ショックでしたが、行動する勇気ももらいました。それから、子どもたちに“夢は叶うってことを俺の人生で証明する”と宣言して、ダンス教室を辞めたのがちょうど30 歳の時です」

──デビューはそのしばらく後になった。
「実家を出てから滋賀県守山市の埋蔵文化財センターで働きながら、寝る間も惜しんで小説を書き続けました。最初からそれなりの品質の作品が書けていたと思うし、ネタで困るようなことが一切なかったのは、小5から歴史小説を浴びるように読んでいたから。それだけじゃなく、歴史上の気になった点があれば現地に行って見聞きしたり、調べたりする習慣もあった。いわば作家になるための準備が、万端に整った状態だったんです。プロになってからも、ネタに困るようなことは一度もありません。今となっては家業を継ぐか継がないか、息子にとって父の存在は何なのかといった、自分が人生を通して経験したことも、作家としていい財産になったと思います」
──書店経営を始めた後も、新作小説の刊行が年に3冊以上とハイペースが続いている。
「自分に特技があるとしたら、経営者の今村翔吾と、作家の今村翔吾のスイッチを切り替えるのがうまいこと。経営者として猛烈に仕事をした直後でも、ノートパソコンを開けばすぐ作家の自分に切り替わり、5秒後には書き出せてしまう。新幹線や飛行機の中はもちろん、タクシーで移動中のちょっとした隙間時間でも、原稿がすいすい書ける。延べ時間でいえば、1日15時間くらい書く日もザラ。経営者として悩ましい判断をしなければならない状況下では、小説を書くことが一種のストレス発散になっているのかもしれない。
今の僕は、経営者と作家を両方やっているからこそ、両方とも楽しくできている。今だから言えるんですが、デビューして2年、3年とがむしゃらに書く生活を続けているうちに、このままでは大好きな小説が嫌いになってしまうんじゃないか、と悩んだ時期があった。今は小説を書く時間そのものが貴重で、存分に喜びを噛み締めながら書いています」

「夢を口に出すと、一緒に追いたい仲間が寄ってきて、助けてくれる」

──直木賞の受賞後、全国行脚した。
「『まつり旅』と称して、自前のワゴン車で全国47都道府県、約300か所に足を運びました。書店や学校を巡り、読者に感謝の言葉を伝え、交流することが目的でした。この旅を通じて、全国にはまだまだ本を好きな人がいっぱいいる、と肌身で感じることができた。その結果、“本は、書店はまだまだ戦える”という、今に至る自信が持てました」
──やはり直木賞の受賞が大きな転機に?
「人生の転機という意味では、直木賞受賞前の2019年に事務所を立ち上げたことのほうが大きかった。デビュー2年目で初めて直木賞候補になったんですが、編集者から電話をもらった瞬間、嬉しくて膝から崩れ落ちて泣いたんです。家賃2万8000円のアパートで、ひとりで1~2分泣きじゃくった。
でも、その後ふと我に返り、そばで一緒に喜んでくれる仲間がいない寂しさや虚しさがこみ上げてくるのを感じた。ダンスインストラクターをしていた時の思い出が頭をよぎりました。あの頃は、子どもたちにダンスを教え、大会に出てみんなで喜んだり悔しがったりする日々だった。仲間と感情を分かち合うことが、自分にとっての幸せだったのかもしれない。僕という人間は、同じ目標に向かって、みんなで何かをすることが好きな性分ではないか、と。もしかしたら小説を書くという孤独な仕事だけでは、僕は病んでしまうんじゃないか、作家を続けていけないんじゃないか。そんなことに気づかされました。
それから当時、偶然再会したダンス教室時代の教え子に声をかけ、事務所を立ち上げました。おかげで僕の活動がどんどん広がり、書店の経営にも繋がった。今は経営する書店の店員なども含め、当時の教え子たちがたくさん僕と一緒に働いていますが、自分の本よりも書店の売り上げのほうが大きくなるほど、事業としての成長が続いています」
──歴史作家として、今後どんな作品を。
「世界に打って出ることを意識した作品を書いていきたい。きっかけは『イクサガミ』という僕の小説の実写映像化です。岡田准一さん主演で世界最大規模の映像配信サービス『Netflix』から、2025年に独占配信されることが決まりました。世界で戦うことを前提にした作品づくりは、他にも同時進行で動いています。どれも海外の人々にも楽しんでもらえるエンターテインメントを目指していますが、日本の歴史や伝統文化が題材です。
自分のやりたいことや夢を公言することって大事だと思います。口に出すことのデメリットは、実現できなかった時にかっこ悪いって言われることくらい。それよりメリットのほうがずっと大きくて、夢を口に出すと、一緒に追いかけたいという仲間が集まってきてくれる。作家になることも直木賞を取ることも映像化も、口に出していたら、いろんな人が助けてくれ、早々に実現できた。日本の歴史小説は、絶対に世界の舞台で戦えると信じています。ハリウッドは、アメリカの歴史をエンターテインメントにしているけど、日本の歴史だって負けず劣らず面白いんだから。本の未来の楽しみが尽きません」

今村翔吾(いまむら・しょうご)
1984年、京都府生まれ。関西大学文学部卒業後、ダンスインストラクター、滋賀県守山市の埋蔵文化財調査員などを経て、2017年にデビュー。’18年、『童の神』で角川春樹小説賞、20年、『八本目の槍』で吉川英治文学新人賞、『じんかん』で山田風太郎賞、’21年、「羽州ぼろ鳶組」シリーズで吉川英治文庫賞、’22年、『塞王の楯』で直木賞など受賞歴多数。’21年から書店経営も始め、現在、3店舗のオーナー。
※この記事は『サライ』本誌2025年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。
(取材・文/吉田大助 撮影/塚田史香、奥田貴文)
