地域ごとに異なる風味や風土、職人の個性も含め楽しむものになった蕎麦。その最前線を訪ねた。
桜で有名な高遠町にある蕎麦店『壱刻(いっこく)』主人の山根健司さんは、2024年9月に信州大学大学院で農学博士号を取得したばかりの“博士職人”である。論文の題名は「寒晒(かんざら)し蕎麦の歴史と現状および成分変化」。山根さんが社会人院生として門を敲(たた)いたのは松島憲一さんの研究室だ。
伊那市(旧高遠藩)で誕生した寒晒し蕎麦とは、気温が最も下がる時期に長期間水に浸けて引き上げ、寒の冷気の中で再び天日で乾燥させた玄蕎麦のことだ。
「目的は害虫封じですが、暖かい地域だと発芽や腐敗の可能性があります。冷え込みが厳しい山国らしい保存の知恵です。高遠藩では、夏の土用の期間に、この寒晒し蕎麦を江戸の将軍家に献上していました」
寒晒し蕎麦の特徴
保存性が高い寒晒し蕎麦のもうひとつの特徴は、風味のよさだ。高遠の寒晒し蕎麦は、献上をきっかけに“比肩するものがない”といわれるほど江戸で評判になる。山根さんが大学の研究室で解明したかったことは、寒晒しが風味を向上させるメカニズムだ。
「浮かび上がった存在が酵素です。蕎麦の中にはさまざまな酵素が存在し、水を含むと活性化が始まります。酵素がでんぷん、タンパク質、脂質などを分解すると、さまざまな香りや味の成分が生まれます。蕎麦は風味といわれますが、その要素とは香りと味なのです」
寒晒し蕎麦が名声を高めた背景にあったのは酵素。水を吸わせ再乾燥させる間に酵素が働き、普通に乾燥させただけの蕎麦では感じられない香りと味を生むと山根さんは考察する。
先人の知恵と技である寒晒し蕎麦は、今も新たな可能性を持つ。
石臼挽きで際立つ蕎麦の香り
蕎麦の香りや味の研究に取り組むうち、山根さんの好奇心はさらに深まった。香りや味は品種や産地、粉の挽き方、生地づくりと打ち方、茹で方などでも異なる。大切なのは、それぞれの蕎麦が潜在的に持つそれらを逃さないこと。あるいはどう引き出すか。
そのために欠かせない道具が石臼だ。低速で回転する石臼は、金属製のロール製粉機よりも蕎麦に熱が伝わりにくい。つまり香りが揮発しにくく、味が低下しにくい。
熱を発生しにくい石臼は蕎麦の香りを逃がさない
石臼は手回しと電動の併用
「うちでは小さな手回し挽きの石臼も電動の大きな石臼も使います。手回し挽きは蕎麦の特徴を知るために使い、その香りや味の印象を軸に、どんな蕎麦にして個性を活かすかと考えを組み立てます」
十割なのか、二八なのか。平打ちなのか、細打ちなのか。さまざまな選択と組み合わせがある。
「考えがまとまったら、4つある電動石臼のどれで挽くかを決めます。電動は手回しの石臼と比べて大きいため、試し挽きと同じように挽けない場合があり、そのときは下臼との隙間を加減するなどして、複数の石臼を微調整しながら組み合わせて使っています」
蕎麦は打ちたてに限るという通説にも挑戦している。じつは粉に水を回すことや生地をこねる作業でも香りが抜けていく。ゆえに山根さんは、攪拌せずに粉に水を加え、数日間、冷蔵庫に入れて粉に水を均等に浸透させる。すると酵素活性が促され、香りと味を強めることができる。入野谷在来の蕎麦はそうしている。
「どの蕎麦がいちばんうまいかという視点ではなく、ワインやコーヒーがそうであるように、個性の違い、つまり多様性を楽しんでいただけたらと思います」
そんな考えから、『壱刻』では入野谷在来や信濃1号など5種類の蕎麦を提供する。香りと食べ比べを楽しめる店である。
香りを活かすには、切り幅と茹で時間も肝要
解説:山根健司さん(高遠そば壱刻主人・59歳)
高遠そば 壱刻
長野県伊那市高遠町西高遠1696
電話:0265・94・2221
営業時間:11時〜14時(最終注文)売り切れ次第終了
定休日:水曜、木曜、金曜(冬季休業あり)
交通:JRバス関東高遠線、バス停高遠駅すぐ
※この記事は『サライ』本誌2024年12月号より転載しました。
取材・文/鹿熊 勤 撮影/寺澤太郎