地域ごとに異なる風味や風土、職人の個性も含め楽しむものになった蕎麦。その最前線を訪ねた。

手前は高遠の入野谷在来。ナッツを思わせる香ばしさが特徴。1450円。奥が夏限定の寒晒し蕎麦。細切りで品のよい甘みに繊細な香りが加わる。1200円(令和7年予価)。つけ汁は辛味大根のしぼり汁に焼き味噌を添えた高遠伝統のものと、江戸風の醬油ベースのつゆがある。

桜で有名な高遠町にある蕎麦店『壱刻(いっこく)』主人の山根健司さんは、2024年9月に信州大学大学院で農学博士号を取得したばかりの“博士職人”である。論文の題名は「寒晒(かんざら)し蕎麦の歴史と現状および成分変化」。山根さんが社会人院生として門を敲(たた)いたのは松島憲一さんの研究室だ。

伊那市(旧高遠藩)で誕生した寒晒し蕎麦とは、気温が最も下がる時期に長期間水に浸けて引き上げ、寒の冷気の中で再び天日で乾燥させた玄蕎麦のことだ。

「目的は害虫封じですが、暖かい地域だと発芽や腐敗の可能性があります。冷え込みが厳しい山国らしい保存の知恵です。高遠藩では、夏の土用の期間に、この寒晒し蕎麦を江戸の将軍家に献上していました」

山根さんは高遠でつくり継がれる在来品種「入野谷在来」の保存活動にも汗をかく(※畑は入野谷そば振興会が管理)。
『壱刻』が扱う品種は時期にもよるが13種類ほどで、蕎麦がきにして味をくらべることもできる。写真上から、入野谷在来、信濃1号、信州大そば。入野谷在来は山根さんが最も力を入れている蕎麦。信濃1号は長野県では定番的な品種。信州大そばは文字通り粒が大きな品種。

寒晒し蕎麦の特徴

保存性が高い寒晒し蕎麦のもうひとつの特徴は、風味のよさだ。高遠の寒晒し蕎麦は、献上をきっかけに“比肩するものがない”といわれるほど江戸で評判になる。山根さんが大学の研究室で解明したかったことは、寒晒しが風味を向上させるメカニズムだ。

「浮かび上がった存在が酵素です。蕎麦の中にはさまざまな酵素が存在し、水を含むと活性化が始まります。酵素がでんぷん、タンパク質、脂質などを分解すると、さまざまな香りや味の成分が生まれます。蕎麦は風味といわれますが、その要素とは香りと味なのです」

寒晒し蕎麦が名声を高めた背景にあったのは酵素。水を吸わせ再乾燥させる間に酵素が働き、普通に乾燥させただけの蕎麦では感じられない香りと味を生むと山根さんは考察する。
 
先人の知恵と技である寒晒し蕎麦は、今も新たな可能性を持つ。

石臼挽きで際立つ蕎麦の香り

蕎麦の香りや味の研究に取り組むうち、山根さんの好奇心はさらに深まった。香りや味は品種や産地、粉の挽き方、生地づくりと打ち方、茹で方などでも異なる。大切なのは、それぞれの蕎麦が潜在的に持つそれらを逃さないこと。あるいはどう引き出すか。

そのために欠かせない道具が石臼だ。低速で回転する石臼は、金属製のロール製粉機よりも蕎麦に熱が伝わりにくい。つまり香りが揮発しにくく、味が低下しにくい。

熱を発生しにくい石臼は蕎麦の香りを逃がさない

玄蕎麦は同じ品種でも違いがあるため、山根さんは手回しの石臼で試し挽きをし、目指す香りに製粉する。
放射状の溝が刻まれた上臼と下臼を合わせて回転させ、蕎麦を細かく砕く。

石臼は手回しと電動の併用

「うちでは小さな手回し挽きの石臼も電動の大きな石臼も使います。手回し挽きは蕎麦の特徴を知るために使い、その香りや味の印象を軸に、どんな蕎麦にして個性を活かすかと考えを組み立てます」

十割なのか、二八なのか。平打ちなのか、細打ちなのか。さまざまな選択と組み合わせがある。

「考えがまとまったら、4つある電動石臼のどれで挽くかを決めます。電動は手回しの石臼と比べて大きいため、試し挽きと同じように挽けない場合があり、そのときは下臼との隙間を加減するなどして、複数の石臼を微調整しながら組み合わせて使っています」

蕎麦は打ちたてに限るという通説にも挑戦している。じつは粉に水を回すことや生地をこねる作業でも香りが抜けていく。ゆえに山根さんは、攪拌せずに粉に水を加え、数日間、冷蔵庫に入れて粉に水を均等に浸透させる。すると酵素活性が促され、香りと味を強めることができる。入野谷在来の蕎麦はそうしている。

「どの蕎麦がいちばんうまいかという視点ではなく、ワインやコーヒーがそうであるように、個性の違い、つまり多様性を楽しんでいただけたらと思います」

そんな考えから、『壱刻』では入野谷在来や信濃1号など5種類の蕎麦を提供する。香りと食べ比べを楽しめる店である。

香りを活かすには、切り幅と茹で時間も肝要

香りの成分は空気や水の中にも逃げてしまう。なるべく、麺に閉じ込めるように生地の太さ(切り方)や茹で時間も綿密に計算。
茹でたらすぐに流水で蕎麦のぬめりを軽く取る。麺を引き締めすぎないよう注意。

解説:山根健司さん(高遠そば壱刻主人・59歳)

昭和40年生まれ。大阪や東京での会社員生活を経て平成15年に長野県伊那市の高遠町に移住。蕎麦店の手伝いをしたときに蕎麦の奥深さを知り職人となる。

高遠そば 壱刻

長野県伊那市高遠町西高遠1696
電話:0265・94・2221
営業時間:11時〜14時(最終注文)売り切れ次第終了
定休日:水曜、木曜、金曜(冬季休業あり)
交通:JRバス関東高遠線、バス停高遠駅すぐ

※この記事は『サライ』本誌2024年12月号より転載しました。

『サライ』12月号大特集は『「麵」の大国ニッポン』

取材・文/鹿熊 勤 撮影/寺澤太郎

 

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