はじめに-「大坂の陣」とはどんな戦いだったのか
「大坂の陣」とは徳川氏が豊臣家を滅亡させた慶長19年(1614)の冬、そして翌年の夏の戦いのことを指します。「発端は家康が鐘銘の文字に対して、いちゃもんをつけたことらしい」とか「秀頼と茶々は燃え盛る大坂城で自害するらしい」など、それぞれ強く印象に残っているエピソードも異なるのではないでしょうか。
本記事では、「大坂冬の陣・夏の陣」について、特に徳川家康の動きにも着目しながら解説していきます。
目次
はじめに-「大坂の陣」とはどんな戦いだったのか
「大坂の陣」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「大坂の陣」、その後
まとめ
「大坂の陣」はなぜ起こったのか
関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍となり、名実ともに天下の支配者となっていました。一方の豊臣家は全国にあった蔵入地を没収され、摂津・河内・和泉の約70万石の一大名に転落していたのです。
とはいえ、秀吉の遺言に従い、豊臣秀頼のもとに家康の孫娘・千姫が輿入れしたことで、豊臣家は政権の返還を期待していました。
しかし、慶長10年(1605)、家康は老齢を理由に将軍職を引退。その後を家康の嫡男・秀忠が継ぎます。これは、将軍職は徳川家の世襲だと世に知らしめる行為でした。当然ながら、豊臣家は激怒します。
一方で家康は豊臣家に対し、「故太閤の菩提を弔うため」と言って、全国各地の著名な諸社寺の復興・修復を行なわせていました。これは、豊臣家の財力を消耗させることが目的であったと言われています。
その中の一つに、京都・方広寺の大仏殿再建があったのです。いよいよ大仏殿が完成し、開眼供養を間近に控えた時、家康は鐘銘に言いがかりをつけました。この方広寺鐘銘事件に端を発し、大坂冬・夏の陣が勃発します。
しかし、有名な方広寺の鐘銘事件は単なるきっかけにすぎず、真の原因は一大名に過ぎない豊臣秀頼が江戸への参勤を拒否するなど、幕府への服従をしなかったことから、家康の意思で起こしたものだと一説には言われているようです。
関わった人物
大坂の陣における主要な人物について紹介します。
【徳川方】
徳川家康
慶長8年(1603)に征夷大将軍に就任。その後、慶長10年(1605)に将軍職を嫡男・秀忠に譲り、大御所となる。
徳川秀忠
家康の嫡男。2代将軍を継ぐが、実権は大御所・家康が握っていた。大坂冬・夏の陣では、家康とともに参加。
片桐且元(かつもと)
方広寺鐘銘事件が起きた時、豊臣方として家康と交渉。しかし、秀頼・茶々に徳川方との内通を疑われ、大坂城を脱出。大坂冬の陣では、徳川方の先鋒を命じられる。
【大坂方】
茶々(淀殿)
豊臣秀頼の母。大坂城で権勢を振るう。
豊臣秀頼
豊臣家の後継者。「大坂の陣」の前に二条城で秀頼と面会した家康は、彼の風格を恐れたという逸話が残されている。
大野治長
秀頼を支える中心的人物。「大坂冬の陣」では、和睦交渉を担当する。
真田信繁(幸村)
秀頼の招きに応じて、大坂に入城。大坂冬の陣では、大坂城の外堀の外に城塁(世にいう「真田丸」)を築き、徳川方を相手に奮闘。夏の陣では、家康に死を覚悟させるまで追い詰める。
【この戦いの内容と結果。次ページに続きます】