この戦いの内容と結果
大坂冬の陣、夏の陣の順に経過を紹介します。
大坂冬の陣
戦前、大坂方は福島正則、黒田長政、島津家久など豊臣恩顧の大名たちに来援を求めます。しかし、徳川氏の威勢を恐れ、誰一人応じなかったとか。そこで頼ったのは、関ヶ原の戦いで敗れ、戦を渇望する反徳川の牢人たちでした。その中には、関ヶ原の戦いで自害した大谷吉継の息子・大谷吉治(よしはる)、赤備えの具足を身につけた真田信繁 、宇喜多家家臣の明石全登 (ぜんと)、黒田家家臣の後藤基次 (もとつぐ)、長宗我部元親の4男・長宗我部盛親 (ちょうそがべ・もりちか)、関ヶ原の戦い敗戦後に山内一豊に預けられていた毛利勝永 (かつなが)らがいました。そのほか、全国から10万を超える兵が集まったと言われています。
一方、徳川方に集まったのは、総勢およそ20万。神武以来と言われた大軍勢を率いて、難攻不落の名城・大坂城を囲みます。
大坂城の周辺各地で戦闘が展開されましたが、さすがは秀吉が築いた大坂城。守りが堅く、厳寒の中、戦局は進展しませんでした。
「長期戦は不利」と見た家康は、大坂城本丸に集中砲火し、茶々らの恐怖心をあおります。豊臣方の戦意を喪失させたのです。豊臣方は大野治長と織田有楽斎、徳川方は阿茶局と茶々の妹・初、本多正純を使者に立てます。数度の折衝の末、12月に和議が成立しました。
和議では、大坂城の外堀の一部を埋めることになっていました。しかし、家康はその約定を破り、大坂方の抗議を押し切って、内堀もすべて埋めてしまったのです。このことにより、大坂城はいわば“丸裸”の状態となりました。
大坂夏の陣
約定を破られた大坂方は、当たり前とも言えますが、家康への不信の念を強くします。武器、弾薬、兵糧を集め、戦の準備を始めたのです。こうした大坂方の動きは、家康にとって豊臣家を潰す口実ができたようなものでした。
家康は秀頼に対して、大和 (=現在の奈良県)あるいは伊勢 (=現在の三重県)への国替もしくは牢人の放出といった到底受け入れ難い条件を提示し、挑発。大坂方はこの挑発にのって、兵をあげるのです。
それに対して、家康は4月に秀忠とともに京都で軍議を開きます。その後5月5日、家康・秀忠の本隊は、京都を発して大坂城へ進軍。
一方、堀のない大坂方は、全員出撃を決します。しかし、善戦すれども、ことごとく敗北。真田信繁 、後藤基次、長宗我部盛親ら名だたる武将たちが討ち死にをしました。7日には、ついに大坂城に火がつき陥落してしまうのです。
大野治長は、秀頼の妻であり、家康の孫娘・千姫を大坂城から脱出させることで、「自らは切腹をするから、秀頼・淀殿を助けてほしい」と嘆願します。しかし、願いは叶わず、秀頼や茶々、大野治長らは翌8日、焼け残りの櫓 (やぐら) の中で自害し、ついに豊臣氏は滅亡しました。
「大坂の陣」、その後
戦後、徳川氏は秀頼の遺児をはじめ残党狩りをし、次々と処刑したと言います。同じ年には、一国一城令、『武家諸法度』、『禁中并公家諸法度』、『諸宗本山本寺諸法度』を公布し、幕府の基礎を着実に固めていきました。
まとめ
家康の老獪な戦術と戦後処理を見ると、「なんて古狸だ……」となじりたくなる気持ちが出てくる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、大坂夏の陣以後は大名間の戦いがなくなり、およそ250年に渡る平和な時代が訪れるのです。
これこそ、家康が狸となってでも、成し遂げたかったことなのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
HP:https://kyotomedialine.com FB
協力/大阪市立城東小学校
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)