はじめに-服部良一とはどんな人物だったのか
服部良一(はっとり・りょういち)は、『別れのブルース』や、『東京ブギウギ』、『銀座カンカン娘』、『青い山脈』など立て続けにヒットを飛ばした作曲家であり、「日本レコード大賞」の創設に尽力した人物です。
3000を超える曲を作曲し、日本ポップス音楽界の草分け的存在ですが、実際の服部良一はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
連続テレビ小説第109作『ブギウギ』では、服部良一をモデルにした羽鳥善一(演:草彅剛)が、上京してきた鈴子の才能に惚れ込み、一流の歌手へと育てていく様子が描かれます。
目次
はじめに―服部良一とはどんな人物だったのか
服部良一が生きた時代
服部良一の足跡と主な出来事
まとめ
服部良一が生きた時代
服部良一は、明治40年(1907)10月1日に生まれます。明治末期には日露戦争が、そして大正初期には第一次世界大戦が勃発する激動期でした。そんな時代に、服部良一は産声を上げ、数々のヒット曲を作曲していきます。
服部良一の足跡と主な出来事
服部良一は、明治40年(1907)に生まれ、平成5年(1993)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
商人を目指すも、音楽の道へ
服部良一は、明治40年(1907)10月1日に土人形師をする服部久吉とスエの長男として大阪府大阪市で誕生します。5人きょうだいの4番目の唯一の男児です。子守唄代わりに江州音頭や河内音頭が歌われるような、芸事が好きな一家で育ちます。
そうした環境の中で、良一は小学生の頃から音楽の才能を発揮しますが、商人を目指していたので、昼は働き夜は商業学校に通う日々を過ごしていました。
しかし、転機は突然訪れます。大正12年(1923)16歳のとき、姉の勧めでミナミの鰻屋による「大阪出雲屋少年音楽隊」に入隊することに。一番の成績で入りました。音楽隊が解散した後は、大正15年(1926)には大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団し、オーボエを担当。この時、ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに才能を見出され、作曲理論と指揮法の指導を受けました。
一方で、カフェやダンスホールで、バンドマンとしてジャズを演奏することもあったようです。
上京後、『別れのブルース』が大ヒット!
昭和8年(1933)に上京し、昭和11年(1936)にはコロムビアレコードの専属作曲家となります。入社一作目は、淡谷のり子の『おしゃれ娘』でした。その後に発表した『別れのブルース』、『雨のブルース』が立て続けに大ヒット。良一の出世作となり、ブルース・ブームを作ったのです。
昭和15年(1940)には東宝映画『支那の夜』の音楽を担当。主題歌となった『蘇州夜曲』も瞬く間に人気となりました。
戦争中は、反骨精神から軍歌などは一切作らなかったといいます。戦中、良一の作った『夜のプラットホーム』や『湖畔の宿』などは発売禁止となりました。
【戦後、『東京ブギウギ』『青い山脈』などのヒット曲を作曲。次ページに続きます】