はじめに-真田昌幸とはどんな人物だったのか
真田昌幸(さなだ・まさゆき)は、関ヶ原の戦いの際、上田城で徳川秀忠を食い止め、関ヶ原の戦いに遅参させたことで知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、小国ながらも徳川などの有力大名を手玉に取り、生き残りを図る反骨不屈の男。関ヶ原の戦いでは長男・信幸と敵味方に分かれる苦渋の決断をする人物(演:佐藤浩市)として、描かれます。
目次
はじめに-真田昌幸とはどんな人物だったのか
真田昌幸が生きた時代
真田昌幸の足跡と主な出来事
まとめ
真田昌幸が生きた時代
戦国時代にあった指揮官の役職として、足軽大将(あしがるだいしょう)がありました。その名の通り、足軽を率いる指揮官であり、足軽隊は鉄砲や弓など武器によって編成。足軽大将は武将として出世するための登竜門のようなものだったのです。
真田昌幸は当初、騎馬15騎・足軽30人を従える足軽大将となり、武将としてのキャリアを積んでいきました。
真田昌幸の足跡と主な出来事
真田昌幸は生年が天文16年(1547)で、没年が慶長16年(1611)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
上田を拠点に活動
昌幸は、天文16年(1547)に信濃に生まれました。11歳で人質として甲府へ行き、武田信玄・勝頼父子に仕えます。川中島で初陣を迎えたのは、14歳のときでした。
騎馬15騎・足軽30人を従える足軽大将となり、武藤家の家督を継ぐも、兄の信綱・昌輝が天正3年(1575)に長篠の戦いで戦死したので、真田の姓に戻って真田家を相続することに。
信濃の小県郡真田を拠点とし、沼田城を中心とする北上州を支配することに成功。天正10年(1582)に主君・勝頼が自害すると、武田氏滅亡後は信長に属して、その重臣・滝川一益の元にいました。しかし、本能寺の変で信長が亡くなり、政情が不安定になると、信濃では上杉・北条・徳川が勢力拡大をはかり、つばぜり合いの状態になります。
昌幸は家康に与しながらも、小県郡の豪族たちを破っていきました。そして、天正11年(1583)に千曲川尼ケ淵の断崖上の要地に上田城を築城。同時に城下町も形成され、商人や職人が集まりました。城下町は、現在の上田市の市街地の原型となります。
天正13年(1585)、家康が北条氏と講和するために沼田城を北条氏に返付するよう命ずると、「沼田は徳川氏から与えられたものではなく、自力で獲得した土地だ」と、返却を拒否。これによって、家康に上田城を攻められますが、撃退します。この戦いは第一次上田合戦とも呼ばれ、徳川勢約7000に対し、真田勢は2000人に足らないほどだったといわれています。
真田方は徳川方を上田城に誘い込み、彼らが苦戦している間に、長男・信之の別働隊が攻撃。大混乱に陥った徳川軍は撤退します。しかし、今度は昌幸が設置したバリケードによってなかなか動けませんでした。これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失うことになります。
この戦いの勝利で、昌幸は有名になります。「上田城の備えは城郭の固めにあらず、ただ大将の一心に在る」という格言も残しており、上田城を守ることに対する強い意志が読み取れるでしょう。
天正15年(1587)家康と講和し、ついで豊臣氏に臣従、領国運営に努めました。
【関ヶ原の戦いで秀忠を食い止める。次ページに続きます】