関ヶ原の戦いで秀忠を食い止める
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起きると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信之は東軍に属し、戦うことに。
昌幸は関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍3万8000を相手に、上田城にてわずか2500の兵で迎え撃ちます。この戦いは第二次上田合戦と呼ばれ、秀忠は上田城に数日間足止めを食らうことに。結果、関ヶ原の戦いに遅れてしまいます。家康は天下分け目の戦いに遅れた秀忠に激怒し、秀忠との面会を拒否。側近の榊原康政の調停によって、ようやく秀忠を許しました。
関ヶ原の戦いは東軍が勝利したため、昌幸は窮地に陥ります。しかし、東軍に属していた信之と本多忠勝の嘆願によって領地は没収されましたが、信繁とともに命は助けられました。上田城は破却、廃城のような状態で、信之に引き渡されます。信之は上田城の修復はせずに、三の丸に屋敷を構えて拠点としますが、元和8年(1622)に松代藩(長野市)に移封を命じられ、真田氏の上田支配は39年で幕を閉じました。
昌幸は、最終的に高野山に幽居することになり、そこで生涯を終えます。享年65でした。
旗印の六文銭
真田氏が旗印としたものに六文銭があります。一文銭を3個ずつ横に2列に並べた形のものです。
なぜ六文銭を旗印にしたかについては、2つの説があります。
1つ目は、真田軍が北条軍と戦っていた時に敵を混乱させるために用いたという説。信繁は白無地の旗に北条の重臣・松田尾張守が用いた永楽通宝の紋を描いて、奇襲を仕掛けました。北条方は味方が裏切ったと勘違いして、混乱したと言われています。
2つ目は、六文銭は六道銭(死人を葬る時に、三途の川の渡船料として棺の中に納める六文の銭)と同義であり、すなわち決死の覚悟で戦いに臨むという姿勢を示したもの。真田氏の死を恐れない強い姿勢を読み取れます。
まとめ
昌幸は今の上田の町の基礎を築き、その知略で家康を翻弄するも、最後は敗れて流罪になり、そこで静かに亡くなりました。しかし、後に次男・信繁が大坂の陣でもう一度家康を翻弄し、真田の名は再び世にとどろくことになります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
上田市デジタルアーカイブポータルサイト