カテーテル給餌のために着せていたかわいいおくるみ姿が話題になったわさびちゃん。

2013年6月2日、1匹の子猫との出会いが、ある家族の運命を変えた。

ピンク色のたらこのように見える「おくるみ」姿がなんとも愛らしく、瞬く間にSNSで話題となったあのかわいらしい子猫のことを覚えている人は多いだろう。子猫のわさびちゃん。カラスに襲われて大けがをおったところを保護されたわさびちゃんの様子は、日々、保護した家族の「母さん」がSNSで発信した。家族には「猫経験」がなく、どうしたらいいのか助言を求めるために始めたSNSだった。家族の必死の介護で元気になっていくわさびちゃんの姿に日本のみならず世界中のSNSユーザーが注目、応援していた。

その頑張る姿と家族の無限の愛情の物語は『ありがとう!わさびちゃん』というタイトルで書籍化され、連日テレビやラジオなどでも取り上げられた。今でこそSNS発信の書籍や保護猫の書籍は飽和状態と言えるほど世の中にあふれているが、わさびちゃんの書籍はその先駆けだったと言える。

実は、書籍が完成する直前、わさびちゃんはある日突然、この世から旅立ってしまった。8月27日。「家族」として過ごしたのは、保護されてから87日間という短い期間だった。

書籍の内容は当初、ひどい怪我を負った状態から、家族の献身的な介護により元気になったわさびちゃん、大きく立派に育ったわさびちゃんの軌跡と幸せな日常を綴るものだった。そこには、これまで応援してくれた方々へのお披露目の気持ちもあった。こんなに立派になりましたよ、と。

突然の別れ

家族の献身的な介護で順調に回復していたわさびちゃん。

しかし、もう印刷を待つだけの段階での、突然のお別れだった。家族は泣いた。訃報を聞いた編集者と電話口で話しながら、涙があふれ出て、嗚咽が止まらなかった。編集者も一緒になって泣いた。何かもっとできることはなかったのか……順調に成長していたのに、どうして……苦しい思いをさせてしまった……どうしてこんなに早くお別れしなければならないのか……答えのない問いが頭の中を駆け巡り、ただただどうしようもなく、ただただつらかった。

こんなつらい状況で、このまま書籍化はできないだろうと踏んだ編集者は、「書籍はもう、中止しましょうか」と提案した。「考えます……」と、「母さん」は答えるのが精いっぱいだった。

「母さん」から連絡が入ったのは、本はなくなるだろう、と編集者が思っていた矢先だった。「出します」というのが、答えだった。編集者は驚いた。しかしそれは、家族が真剣に事態を考え抜いて出した結論だった。

「世の中にはこんなにもたくさん野良猫がいて、人知れず失われていく命がたくさんある。過酷な野良猫の実情を、ひとりでも多くの人に知ってもらい、少しでも世の中の意識が変わっていけばいい。書籍化すれば、猫の死をネタにしたと非難されることも覚悟の上。そんなちっぽけな非難で自分たちが傷つくことよりも、もっと大事なことがある」

それまで予定していた『がんばったね わさびちゃん』というタイトルは急遽『ありがとう!わさびちゃん』に変更になった。わさびちゃんを通して野良猫の現状や保護猫活動について知ったという人は多く、世に与えた影響は計り知れない。笑顔をくれたわさびちゃん、みんなに一歩前に踏み出す勇気を与えてくれたわさびちゃん、大切なことを教えてくれたわさびちゃんには、感謝しかなかった。だから、『ありがとう!わさびちゃん』なのだ。

きっかけを作ってくれたわさびちゃん

父さんの音楽活動のお手伝い? をするわさびちゃん。

わさびちゃんとの出会いと別れ、『ありがとう!わさびちゃん』刊行から、今年で丸10年を迎える。その間、「わさびちゃんち」と名乗る家族は100頭以上の猫や犬を保護。どんなに厳しい状況でも、必死で猫や犬の心の声に応えてきた。難病を患っていた猫もいた。幾度もつらい別れを経験し、涙も枯れ果てるほどだった。

それでも、SNSや展示会、書籍などには辛い写真よりもむしろ、明るく楽しい写真を載せることで、猫や犬との生活がこんなにも人を豊かにするということを訴えてきた。せっかく生まれてきた命を大事にして欲しい、この子達には愛される権利がある。「わさびちゃんち」の写真からはそれがひしひしと伝わってくる。捨て猫、野良猫がいなくて、保護活動などという言葉がなくなってしまえばいい。それが「わさびちゃんち」の願いだ。

「わさびちゃんち」の「父さん」は、わさびちゃん保護以前からアーティストとして活動している「SNARE COVER(スネア・カバー)」こと斎藤洸。2017年にドイツで開催されたバンドの国際大会に日本代表として出場し、ベストシンガー賞を授賞した実力派シンガーで、今年令和5年7月にはビクターエンタテインメントからシングル「Hourglass」を引っ提げメジャーデビューを果たした。

長年、「父さん」として保護活動をしてきたSNARE COVERの楽曲のひとつ「虹のリード」は、わさびちゃんをはじめ、心の奥に深く強い「爪痕」を残していった愛しい動物家族たちのことを思い描いた作品だ。暖かく優しい旋律が、愛する家族である猫や犬との別れを経験したことのある人の心を揺さぶる。

「わさびちゃんち」もアーティストSNARE COVERも、悲しみを飲み込みながら(乗り越えていけるものではないから)、日々、自分たちのなすべきことを続けている。

「わさびがきっかけとなり、たくさんの猫たちを保護して里親さんにつなぐことができました。救え切れなかった命もありました。理不尽なことも多く、もう限界だと思うこともしばしば。それでも目の前に助けが必要な犬や猫がいると、見捨てることができない。私たちがどんなに一生懸命取り組んでも、終わりは見えてきません。社会全体がいつか変わってくれると思いながら10年が経ちました。少しは変わってきたのかな? そうであって欲しいですが、やはり先はまだ長く感じられます」

わさびちゃんちの「母さん」は、改めてこの10年を振り返って語ってくれた。

保護という言葉がなくなるまでは、まだまだ時間がかかりそうなのが日本の現状だ。それでも、10年目の今、改めて伝えたい。父さん母さんをはじめ、多くの人々にきっかけをくれたわさびちゃん、ありがとう!

わさびちゃんを通じて多くの人に野良猫の現実を伝えた書籍『ありがとう!わさびちゃん』(小学館刊)。

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