はじめに-浅井長政とはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する浅井長政(あざい・ながまさ、演:中島歩)は、北近江(きたおうみ、現在の滋賀県)の戦国大名として勢力を伸ばし、織田信長(演:小栗旬)の妹・市(演:宮崎あおい)を妻に迎えて同盟を結んだ人物です。
ところが、信長が越前の朝倉氏へ攻め入ると、長政は「旧誼」を理由に同盟を破棄し、信長と正面から衝突します。姉川(あねがわ)の戦いでの敗北、包囲網の形成、そして小谷城(おだにじょう)落城……。最盛期から滅亡までの振れ幅が大きいからこそ、長政の決断は今も読み解きがいのある人物だといえるでしょう。
『豊臣兄弟!』では、義に厚く知勇に優れた青年武将として描かれます。

浅井長政が生きた時代
浅井氏の領土である北近江は、京へ通じる交通の要衝で、周辺には六角氏・朝倉氏・織田氏といった有力勢力が並び立っていました。浅井長政の時代、浅井氏は京極氏を圧倒し、六角氏との同盟関係も清算して、独立した戦国大名として最盛期を迎えます。
一方で、信長の西進は、北近江の国政や外交を一変させました。長政が「朝倉との長期同盟」と「織田との新しい友好」の間で揺れたこと自体が、この地域が「境目の土地」であったことを物語っています。
浅井長政の足跡と主な出来事
浅井長政は、天文14年(1545)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
浅井久政の子として生まれる
長政は、北近江の浅井久政(あざい・ひさまさ)の子として生まれます。父の久政が南近江の守護・六角義賢(ろっかく・よしかた)に敗戦したことで、長政が生まれた頃には浅井氏は六角氏に従属するようになっていました。
そうした中、父・久政は重臣たちに強要されて隠退。長政は、16歳にして家督を相続します。義賢からは「賢」の字をもらい、浅井賢政(かたまさ)と名乗らされました。
六角氏に反旗を翻す
長政は、永禄2年(1559)の「肥田(ひだ)城の水攻め」、翌年の「野良田(のらだ)の戦い」にて、六角氏を相手に果敢に戦います。野良田の戦いに関しては、六角氏の方が圧倒的に有利であると考えられていましたが、長政の巧みな戦術によって、打ち勝つことができました。
永禄4年(1561)、美濃斎藤氏と呼応した佐和山城攻撃も退けると、長政は義賢から押し付けられた「賢政」の名を棄て「長政」と改めます。
この時、長政の噂を聞きつけて興味を持った人物が、織田信長だったのです。

市との結婚|信長との同盟
長政が六角氏との戦いで武名をあげていた頃、信長は美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏の存在に苦しめられていました。そこで、近江国の権力者となった長政と同盟を結ぶことで美濃国を挟み撃ちにし、斎藤氏を攻略できると信長は考えたのです。
永禄10年(1567)、信長は長政に接近し、同盟を結んだ暁には自身の妹の市を嫁がせると、長政に提案します。尾張の権力者である信長と同盟を結ぶことは、長政にとって悪い話ではありませんでした。しかし、かねてから恩義のある朝倉家と織田家は不仲であったため、長政はどうすべきか悩みます。
結局、朝倉家を攻撃しないことを条件に、信長との同盟を受け入れることにしたのです。

信長上洛の先鋒に
永禄11年(1568)、信長が足利義昭を奉じて上洛をめざした際、長政は先鋒として観音寺城で六角義賢を破るなど、信長の上洛戦を支えました。
ここに、浅井・織田の同盟は「軍事協力」としても機能していたことがはっきり見えてきます。
金ヶ崎の戦い勃発、信長を裏切る
信長は、自身の権力を誇示するとともに、さらなる勢力拡大のため、足利義昭(あしかが・よしあき)を擁立します。そして、新たに将軍職に就いた義昭に挨拶するようにと、信長は諸大名に上洛を要求しました。しかし、越前国(現在の福井県)の戦国大名・朝倉義景(あさくら・よしかげ)はこれを拒否。義景に腹を立てた信長は、長政との約束を破り、朝倉征伐に乗り出したのです。
越前国付近まで軍を進めた信長は、朝倉側の天筒山(てづつやま)城を攻略し、元亀元年(1570)には「金ヶ崎の戦い」にて、金ヶ崎城の攻略にも成功します。朝倉軍につくか、織田軍につくかという究極の選択を迫られた長政は、悩んだ末に朝倉軍に味方することに。居城である小谷城から、織田軍に向けて出陣したのです。

予想外の長政の裏切りにより、信長は窮地に追い詰められますが、豊臣秀吉や明智光秀らの働きもあって、命からがら京都まで逃げることに成功しました。
姉川の戦い勃発、朝倉家の滅亡と悲劇的な最期
自分を裏切った長政への報復として、金ヶ崎の戦い後すぐに、信長は「姉川の戦い」を起こします。長政は、朝倉氏の支援を得て織田軍と戦いますが、敗北を喫することに。しかし、姉川の戦いから数か月後、兵力を立て直した長政と朝倉氏の連合軍は、「志賀の陣」にて信長の支配下である宇佐山城を攻撃します。

さらに、長政は一向一揆勢力や織田氏と敵対関係にあった武田氏などと通じ、織田軍を包囲することに。再び窮地に立たされた信長でしたが、戦いの途中で朝倉軍が勝手に退却し、絶好の戦機を逃します。
その後、武田信玄が急死したりと、戦局は一気に信長有利に展開することとなりました。
小谷城落城、長政自刃
天正元年(1573)8月、信長は大挙して小谷城を包囲します。信長はいったん主力を朝倉攻撃に転じ、8月20日に義景を自刃へ追い込み、8月26日に虎御前山へ帰陣。その後、小谷本城は猛攻を受けます。
そして8月27日夜、城内の要所「京極丸(きょうごくまる)」が木下藤吉郎秀吉に占拠されたことを機に、形勢は決しました。長政は8月28日に自刃。29歳でした。父・久政もまた運命をともにします。
落城寸前に市と三人の娘は信長に引き取られますが、嫡男・万福丸は刑死し、男系は途絶えます。
一方で娘たちは、のちに茶々は秀吉の側室(淀殿)、初は京極高次の妻、そして小督(おごう)は徳川秀忠の妻となり、浅井の血は別のかたちで天下へと深く入り込みました。

まとめ
同盟関係にあった信長と決別し、悲劇的な最期を迎えた長政。信長は長政と同盟を結んだことを大変喜び、市との結婚の際には自分の名前に使われている「長」という字を送り、結婚費用も全て負担したそうです。
深く信頼していたからこそ、裏切られたことを簡単に許すことはできなかったのかもしれません。裏切りの理由に関しては様々な意見があり、真相ははっきりとわかっていませんが、長政もまた、戦国の動乱期に儚く散っていった人物であるといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)











