はじめに-足利義昭とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する足利義昭(あしかが・よしあき、演:尾上右近)は、室町幕府の「最後の将軍」です。けれども、その人生は「滅びゆく幕府の当主」という一言ではおさまらないでしょう。

僧として生きるはずだった青年が、兄であり、13代将軍の義輝(よしてる)暗殺を機に、各地の大名へ「幕府再興」を呼びかける…。やがて織田信長(演:小栗旬)に奉じられて上洛し将軍となるも、実権を握る信長と衝突し、ついには追放。

それでも義昭はあきらめず、紀伊・鞆へと拠点を移しながら、再起の糸を手繰り寄せようとします。信長亡き後は豊臣秀吉(演:池松壮亮)とも向き合い、将軍職をめぐる「距離」を保ったのも、義昭らしい矜持でした。

『豊臣兄弟!』では、数奇な運命に翻弄された、室町幕府最後の将軍として描かれます。

足利義昭

足利義昭が生きた時代

義昭が生きた戦国時代後期は、将軍の権威が大きく揺らぎながらも、なお「将軍」の権威は効力を持っていた時代でした。

京都では、将軍・義輝が暗殺され(1565)、幕府は事実上の空白へ。各地の戦国大名は、それぞれの都合で「上洛」「正統性」「朝廷との関係」を必要とし、将軍家は「利用される看板」としての側面がありました。

織田信長は軍事力で上洛を実現しますが、義昭はそこで「神輿」としておさまるつもりはなく、自ら政治を動かそうとします。ここに、両者のねじれが生まれていくのです。

足利義昭の足跡と主な出来事

義昭は天文6年(1537)に生まれ、慶長2年(1597)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

「義昭」を名乗る

義昭は、室町幕府の第12代将軍である足利義晴(あしかが・よしはる)の次男として、天文6年(1537)に生まれました。当時、嫡子以外は出家するのが慣例であり、家督を相続する立場になかった義昭も6歳で奈良の興福寺・一乗院(いちじょういん)に入室します。そして、覚慶(かくけい)と名乗りました。

出家した義昭は、僧侶としての人生を歩むかに思われました。しかし、大きな転機が訪れます。永禄8年(1565)に室町幕府の第13代将軍で、義昭の兄である足利義輝が家臣であった三好三人衆と松永久秀らに暗殺されてしまったのです。その時、義昭は奈良に幽閉されてしまいます。

何とか奈良から脱出して還俗し、義秋(よしあき)を名乗り、将軍となる意志を明確にしました。その後、朝倉義景(あさくら・よしかげ)の庇護を受けて、永禄11年(1568)に元服し、義昭と改名したのです。

信長とともに上洛し、将軍就任

義昭は、上洛と征夷大将軍の就任を目指して、上杉や武田など各地の大名へ協力を求めます。これに応じたのが信長で、義昭は信長の支援を受けて無事に京都に入り、永禄11年(1568)に征夷大将軍に任命されました。こうして、義昭は室町幕府再建に向けてその一歩を踏み出すはずだったのです。

織田信長
織田信長

将軍が「反信長」の旗を掲げる

しかし、義昭は信長と対立していくようになります。政治の実権は信長にあったので、義昭は思うように政治ができませんでした。元亀元年(1570)には、信長が義昭の政治行動を規制する条書を示したとされ、両者の緊張は決定的になります。

そして、天正元年(1573)、ついに浅井・朝倉・武田諸氏と結んで信長に対して挙兵しましたが、信長に敗れ、京都を追われることに。この事件をもって、室町幕府は滅亡したといわれます。

備後鞆で再起を図る

京都を追われたあとも、義昭は再起を諦めませんでした。京都から追放されたものの、まだ征夷大将軍の地位にあったのです。家康も含め諸大名に幕府回復を依頼し、天正4年(1576)には備後鞆(とも、現在の広島県東部)に移住して、毛利輝元(もうり・てるもと)の支援を受けて、帰洛運動の拠点とします。また、輝元は副将軍に任命されました。

鞆は当時の海上交通の大きな役割を担う要所でした。また、室町幕府の開祖である足利尊氏(あしかが・たかうじ)が、南北朝の動乱時に鞆で軍勢を集結させるなど、足利家にとってはゆかりのある地であったといえます。

義昭の周辺には武家家臣・芸能集団・侍医など多くの随行者がおり、100人以上の関係者が鞆で生活していたそうです。天正15年(1587)までの11年間の政権を「鞆幕府」と呼ぶ意見もあります。

本能寺の変後、秀吉との関係は?

天正10年(1582)の本能寺の変で信長が倒れると、義昭は情勢の変化を追い風に、京都復帰を図ります。その過程で、羽柴秀吉は義昭の養子となり、征夷大将軍を望みます。しかし、義昭はこれを拒否しました。

将軍という称号を譲れば生きやすかった可能性もあります。それでも渡さなかったところに、義昭が最後まで「足利将軍家の当主」であろうとした意地が見えるようです。

帰京、出家、そして名護屋へ…

天正16年(1588)、聚楽第行幸を機に京都に帰った義昭は将軍を辞して出家し、昌山(しょうざん)と名乗りました。この時、既に豊臣秀吉が最高権力者として君臨しており、室町幕府は名実ともに終焉を迎えたのです。

その後、秀吉から1万石を拝領。晩年は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉の話し相手を務めていました。元将軍だったこともあって、秀吉から貴人として扱われたそうです。なお、義昭は朝鮮出兵の文禄(ぶんろく)の役では、肥前名護屋に従軍しています。

名護屋城跡の陣跡配置図でも波戸浦沿いに「足利義昭」の名が見える(赤枠で囲んだ部分)。

慶長2年(1597)8月28日、大坂で死去。京都相国寺霊陽院に葬られます。享年61歳でした。足利将軍家の政治の歴史は、ここで静かに幕を閉じます。正室はなく、側室は6人、子は3人いたそうです。

まとめ

足利義昭は、滅びゆく室町幕府の「最後の将軍」であると同時に、戦国大名たちの上にまだ残っていた「将軍の権威」を、最後まで使った人物でした。

信長に奉じられて上洛しながら、従属を拒み、追放後も執念深く再興を図る。そして信長亡き後、秀吉に将軍職を渡さなかった選択には、足利家の矜持がにじみます。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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