はじめに-空誓上人とはどんな人物だったのか
空誓上人(くうせいしょうにん)は三河の一向一揆が起きた際に、本證寺(ほんしょうじ・今の愛知県安城市)という有力な寺の住職でした。そして、一揆軍のリーダーとして、門徒を率いて徳川家康と戦ったというエピソードが知られています。
そんな空誓上人ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、本證寺の住職として人心を掌握し寺内町(じないちょう)を作り、集まった民衆を救済しようとする人物(演:市川右團次)として描かれます。
目次
はじめに-空誓上人とはどんな人物だったのか
空誓上人が生きた時代
空誓上人の足跡と主な出来事
まとめ
空誓上人が生きた時代
空誓上人が生きた時代は、以前から全国的に広がっていた一向一揆が激化し、たびたび戦国大名と交戦していた時でした。そのような状況下で、空誓上人自身も門徒を率いて、一戦国大名である家康と戦うことになったのです。
空誓上人の足跡と主な出来事
空誓上人は、生年は不詳ですが、没年は慶長19年(1614)とされています。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
三河の一向一揆で、一揆軍のリーダーになる
永禄6年(1563)、三河で一向一揆が発生。この時、空誓上人は本證寺10世でした。そして、空誓上人は周囲から一揆軍のリーダーに祭り上げられることになるのです。
そもそも、なぜ三河で一向一揆が起きたのでしょうか。このころ三河には、一向宗系の寺が寺内町と呼ばれる町を形成し、宿屋・商店・教育施設・病院さらには土塁・堀などの防衛施設も兼ねそろえるなど大きな勢力を誇っていました。寺内町の中は「守護不入(しゅごふにゅう)」。つまり治外法権であり、そこでは守護などの役人による徴税・罪人逮捕を拒否できたのです。当然ながら、そのような寺内町は全国支配を目指す戦国大名にとっては看過できない存在であり、たびたび戦闘も起きていました。
三河一向一揆の原因は、永禄5年(1562)、家康家臣が上宮寺から食料を強制的に借用したこと(『松平記』)とも、本証寺寺内での喧嘩を処理する際に不入侵害したこと(『三河物語』)とも言われていますが、はっきりとした理由は定かではありません。一説には、当時、今川との戦いの真っ最中だったので、今川方が一揆を起こさせたのではないかとするものもあります。
いずれにしても家康家臣の不入侵害に抗議する蜂起でした。その後の調停がうまくいかず、永禄6年(1563)の三河一向一揆が勃発します。
【本多忠勝は家康につき、本多正信は一揆軍に加勢。次ページに続きます】