文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、世界90カ国以上で放映され、5千万人が鑑賞する新年の風物詩だ。このコンサートを、毎年楽しみにしている人も多いだろう。

ニューイヤーコンサートと言えば、シュトラウス一家の作曲したワルツやポルカなどの名曲が演奏され、ヨハン・シュトラウス二世の「美しき青きドナウ」と、その父シュトラウス一世の「ラデツキー行進曲」は、アンコールを飾る曲として欠かせない。

音楽の都ウィーンで、「ウィーンフィルが新年にシュトラウス一家の作品を演奏するコンサートを行う」という伝統は、いつ頃どのようにしてできただろうか? ニューイヤーコンサートの起源とその歩みを紐解く。

ニューイヤーコンサートの会場となる楽友協会「黄金のホール」

ニューイヤーコンサートの起源は? 

ウィーンで新年にコンサートを開催する伝統は、実はウィーンフィルとは無関係だ。イギリス人等の外国人音楽家が、1838年から8年にわたってニューイヤーコンサートを行ったという記録があり、この頃には既に新年に演奏会を開く伝統が始まっていたと言える。

現在のニューイヤーコンサートの会場である楽友協会が1870年に建設され、当時大人気だったヨハン・シュトラウス二世やその弟エドゥアルト率いるオーケストラが、「黄金のホール」を演奏会の場として定期的に利用するようになった。これを受けて翌年元旦、初のシュトラウス一家によるニューイヤーコンサートが、楽友協会全館貸し切りで開かれた。

楽友協会

これが初めての「楽友協会でのニューイヤーコンサート」だが、演奏したのはシュトラウスオーケストラで、ウィーンフィルではない。その後4、5年ごとに計3回開かれた後、ニューイヤーコンサートはシュトラウス一家の手を離れる。

ニューイヤーコンサートの新たな担い手

ヨハン・シュトラウス二世の死後、20世紀初頭は、ウィーン交響楽団などほかのオーケストラにより黄金のホールでのコンサートは継続された。「美しき青きドナウ」が必ず演奏されるなど、現在の形式に近づいていくのもこの頃だ。ラジオ放送も始まり、シュトラウスの曲で新年が明けるという文化は、お茶の間にも広がっていく。

ヨハン・シュトラウス一世とその息子たちのレリーフ

1928年、満を持してシュトラウス一家が指揮台に戻って来た。ヨハン・シュトラウス二世の甥ヨハン・シュトラウス三世が黄金のホールの指揮台に上がり、ウィーン交響楽団を指揮したコンサートは、ラジオでも生放送され、オーストリア人の脳裏に刻まれることとなる。

このコンサートは3年続いたのち担い手を失い、迷走を始める。60年続いた新年コンサートの伝統が途切れようとしたとき、落とされたバトンを拾ったのが、ウィーンフィルだったのだ。

市民公園のヨハン・シュトラウス二世像

シュトラウスとウィーンフィルの関係

現在のニューイヤーコンサートの知名度から、シュトラウス一家とウィーンフィルは親密な関係にあったというイメージがあるが、実は当初はライバルともいえる関係にあった。

ヨハン・シュトラウス二世が一世を風靡していた19世紀後半、彼の作曲する音楽は当時の「ポップカルチャー」であり、娯楽音楽として楽しまれていた。一方ウィーンフィルはベートーヴェンやワーグナーを演奏する「正統派クラシック」のオーケストラであり、両者は人気オーケストラとしての競合相手でもあった。

「美しき青きドナウ」が作曲された部屋

ウィーンフィルが重い腰を上げ、当時大人気のシュトラウス二世と初めて共演したのは、48歳のシュトラウスがウィーンフィルの指揮者の急病に伴い飛び入りした時だ。その後、ウィーン万博の特別コンサートや国立オペラ座での共演を経て、シュトラウス50歳の誕生日には、ウィーンフィルがメダルを贈っている。晩年の国立オペラ座の「こうもり」が最後の共演だ。

シュトラウス博物館に飾られたヨハン・シュトラウス二世の肖像画

ウィーンフィルとシュトラウス二世は、晩年になってやっと距離が近づいたが、その後もウィーンフィルのレパートリーにシュトラウス一家の曲が含まれることはほとんどなかった。その関係が大きく変わったのは、シュトラウス二世の死後40年以上たった頃だった。

当時のウィーンフィル指揮者クレメンス・クラウスは、ウィーンフィル史上初めてシュトラウス一家の曲を積極的に取り入れたコンサートを開き、次第に「シュトラウス音楽の次の担い手」の地位を確立していく。

新年の演奏会の伝統が担い手を失った約10年後の1939年、楽友協会黄金のホールで、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートがクラウス指揮で開催される。演目は前半がハイドン、ベートーヴェン、シューベルトで、後半はシュトラウスであった。時代はオーストリアがナチスドイツに併合された第二次世界大戦中。戦争のための寄付を集める特別コンサートとしての名目で、新年ではなく大晦日に行われた。翌年からは新年コンサートとなり(これが正式な第一回)、終戦まで6回続いた。

ある意味プロパガンダ的な背景から生まれたウィーンフィルのニューイヤーコンサートだったが、シュトラウスとの距離が遠かったウィーンフィルが、一人のシュトラウス贔屓の指揮者の存在によって、100年続く伝統を後世につなげた功績は大きい。

定期演奏会後の楽友協会黄金のホール

世界に羽ばたくニューイヤーコンサート

戦後もこの伝統は続き、クレメンス・クラウスに続きヴィリー・ボスコフスキーが25年間指揮者を務めた後、カラヤン以降は現在のように、毎年指揮者が変わるシステムを採用している。1959年にはテレビ放送が開始され、日本のお茶の間でも鑑賞できるようになったのは1973年以降だ。

現在ではおなじみの「美しき青きドナウ」や「ラデツキー行進曲」がアンコールの定番曲となり、拍手や手拍子、指揮者の挨拶などの「お約束」が次第に加わりつつも、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、柔軟に時代のニーズにこたえている。

新年に世界90カ国で、オーストリアの美しい風景やバレエを背景にシュトラウス一家の音楽を楽しむことができる、ウィーンフィルのニューイヤーコンサート。音楽の都を舞台に引き継がれた、その伝統の歩みを思い出してみるのも、新年を迎える楽しみの一つになるだろう。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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