日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他ならないからでしょう。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。
名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解すること。名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。
歴史ある水を訪ね古都を歩きます。
安全で美味しい水が、比較的容易に手に入る現代。日常生活において、湧水を煮沸せずに飲むことなどほとんどなくなりました。如何に“名水百選”に選ばれていようとも、管理している行政機関などによって、必ず「生水での飲用はしないでください」との注意書きが立てられています。
現在のように交通手段が発達しておらず、徒歩や籠、馬や牛で移動していた時代においては、安全な水を確保することは容易ではなかったと思われます。
城下町や宿場町を拓くには、生活用水となる豊富な水源確保が絶対必要条件になったことでしょう。しかし、主要都市や宿場町間を結ぶ街道となると、必ずしもそうではなかったと思われます。
高度な土木技術がなかった時代においては、距離よりも危険な場所を回避することを優先したでしょうし、高い山や河川に阻まれた地形であれば、大きく迂回するルートをとらざるを得なかったでしょう。
そう考えると、長旅において人々が安全な飲料水を確保できる水場は、無事に旅をする上での生命線ともいえる存在であったに違いありません。
今回の古都の名水は、これまでの名水とは少し趣きを変え、古より多くの旅人の喉を潤してきた旧街道の路傍に湧き出す二つの歴史ある名水をご紹介いたします。
江戸時代、五街道の一つに数えられた中山道に湧き出す名水
昔の旅人は、1日にいったいどれだけの距離を歩いていたのでしょか?
弥次喜多道中記として知られる『東海道中膝栗毛』の中に登場する宿泊地を参考にすると、1日に歩いた距離はおよそ八里から十里(約32~40km)程度ではなかったかと推測できます。そうなると、宿場と宿場を結ぶ街道筋には喉を潤す水場や茶屋のような処が必要になります。
今回、紹介する旧中山道「謡坂(うとうざか)」付近に今も残る二つの水場「一呑の清水(ひとのみのしみず)」と「唄清水(うたいしみず/うたしみず)」も、長旅をする人にとってオアシス的な存在であったに違いありません。
中山道といえば、江戸時代の五街道の一つ。江戸と京都の間を結ぶ東海道に次ぐ重要な街道であったことは周知の通りです。東海道は、本州の太平洋岸に沿ったルートを通る街道、それに対して中央山岳部の山波を越え貫通するする中山道は裏街道とも表されていたそうです。
中山道の起点は板橋宿で、終点の守山宿(滋賀県草津市)までの67次。守山宿の隣は草津宿で、ここからは東海道と合流します。「53次」といわれる東海道よりも宿次は多く、距離も六里余り(約24kmほど)長かったそうです(※中山道の全行程距離については諸説あります)。ルートとして、木曽(きそ)11宿を通過することから、木曽路・木曽街道などとも呼ばれました。
今となれば「木曽路」の呼び方にロマンを感じてしまうのですが、山中(さんちゅう)を通るルートだっただけに難所が多かったようです。碓氷(うすい)峠をはじめとして、和田、塩尻、鳥居と峠が続き、木曽谷を通過したのち、馬籠(まごめ)峠を越えて平野部へと降るルート。この間には、碓氷と木曽福島に幕府の関が設けられ通行人を厳しく検閲したという記録があるそうです。
ではなぜ、東海道を通らず山中道を選び旅をしたのでしょうか?
残っている資料によると、東海道に比べて交通量が過密ではなく、休泊料などの旅費が安上がりであったことから旅人に好まれたという説が有力。
こうした説を裏付けるようなエピソードとして、京都から高貴な姫君が江戸へ輿入れをする際にもこのルートを通ることが多かったという記録があるようです。今回ご紹介する名水「一呑の清水」にも、そうした逸話が残されております。
皇女和宮が心を癒し、喉を潤した名水「一呑の清水」
「一呑の清水」は、旧中山道48番目の宿にあたる細久手宿から次の御嶽宿へと続く街道「謡坂」付近の路傍に湧き出しています。この名水は、文久元年(1861)に、十四代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮が賞味し称えたという逸話が残されています。皇女和宮(和宮親子内親王:かずのみやちかこないしんのう)といえば、幕末期を描いたドラマや映画に、しばしば登場する人物。幕末の動乱期の荒波に翻弄された女性として描かれます。世に言う和宮降嫁問題です。
降嫁に至る経緯は、6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)との婚約が整っていたにもかかわらず、幕府からの執拗な申し出(圧力)に屈するかたちで、十四代将軍徳川家茂との婚儀が整います。
これは、衰えつつあった幕府の統治力を、朝廷との融和・結合(公武合体)することで回復を図ろうとする幕閣の政略によるもの。哀れにも、和宮はその犠牲になった形です。時は、文久元年(1861年)10月20日、和宮は16歳。中山道を通り江戸へと下ったとされています。中山道を選んだ理由としては、公武合体に反対する勢力が和宮の奪回を企てるのでは? という憶測があり、それを回避するためだったという説もあります(諸説あり)。
旅人の唄声に水面を震わせた、叙情的な名称をもつ名水
「謡坂」という地名の由来からは、昔の旅の様子を窺い知ることができます。
急坂な登りが続く「謡坂」、その苦しさを紛らわすために旅人たちが唄を歌いながら歩みを進めたといいます。旅人たちは、どのような唄を歌ったのでしょう。江戸時代のことですから、もっぱら民謡だったのでしょうか? その旅人の姿から「うたうさか」と呼ばれるようになり、次第に「うとうざか」に変化したと伝わります。
その「謡坂」には、地名に因んだような「唄清水」と名付けられた湧水があり、その傍には、名前の由来となった俳句とその俳人の名が刻まれた句碑が立っております。以下、ご紹介しましょう。
「馬子唄(まごうた)の 響きに浪たつ 清水かな」五歩
この句を読んだ「五歩」とは、尾張藩 千村平右衛門源征重という人物だそうですが、如何なる人物かについて詳しい資料を見つけることはできませんでした。
それにしても、俳句に詠まれるほどの唄声とは、どのような美声であったのでしょうか? 想像するに、現代の民謡歌手か、それ以上であったような感じさえします。
なお、先に紹介した「一呑の清水」と「唄清水」は、岐阜県の名水五十選にも選ばれております。
散策に良き季節になりましたら、旧中山道の路傍に湧き出す名水を訪ね、歴史ロマンに浸ってみてはいかがでしょう。
所在地・アクセス
□一呑の清水
住 所:岐阜県可児郡御嵩町謡坂5330
自動車:東海環状自動車道可児御嵩ICから車で約15分
鉄 道:名古屋鉄道広見線 御嶽駅より車で約10分
□唄清水
住所:岐阜県可児郡御嵩町謡坂4955
自動車:中央自動車道土岐ICから車で約15分
鉄 道:名古屋鉄道広見線 御嶽駅より車で約10分
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/小菅きらら
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook