『鎌倉殿の13人』 では、伊豆修善寺に幽閉された源頼家(演・金子大地)のもとを母北条政子(演・小池栄子)が、頼家の好物だという干しあわびを持って訪ねるシーンが描かれた。もちろん、北条家への怒りに震える頼家が政子に会うはずもなく、政子が修善寺を訪れた同じ月に、頼家は北条義時(演・小栗旬)が命じた刺客(劇中では善児/演・梶原善)によって殺害された。
北条氏と比企氏の権力闘争の渦に巻き込まれ、まだ20代前半という若さで命を落とすことになった源氏の貴種頼家。修善寺には頼家の墓地とともに、母政子が、頼家の菩提を弔うために寄進したとされる「指月殿(しげつでん)」という経堂がある。鎌倉初期の建築で、伊豆で最古の木造建築物。高さ203cmの釈迦如来坐像が本尊として鎮座している。
この「指月殿」の造営は、頼家の追善を目的とした政子の「母心」の発露なのだろうか――? 『鎌倉殿の13人』で描かれた、あまりにも理不尽な仕打ちを受け、非業の死を遂げた頼家のストーリーを目の当たりにすると、修善寺の「指月殿」は頼家の怨霊や荒魂(あらみたま)を鎮めるために造営したのではないかとも思えてくる。
そのことを考えるために、まずは、平安から頼家の時代に至るまでの「怨霊史」をごく簡略に振り返ってみたい。
道真、将門、崇徳上皇の「怨霊御三家」
平安時代の「怨霊」といえば、菅原道真と平将門、そして崇徳上皇が「怨霊御三家」としてあげられるだろう。
宇多天皇に信頼されていた菅原道真だが、醍醐天皇への御代替り以降、藤原時平とその周辺から露骨に圧をかけられる。そして、大宰府に左遷され2年後に生涯を閉じた。
「道真の怨霊」は、政敵藤原時平の死や、醍醐天皇皇太子(保明親王)夭折の際などに出現したことが『扶桑略記』や『日本紀略』などの歴史書に記される。道真の死後、およそ20年の間に相次いだ出来事だ。このことが、道真の霊を宥めるために北野社造営のきっかけとなった。
そして、平将門。没後千年経過した昭和15年の段階でなお、その「怨霊」が真剣に恐れられた存在だ。もともと将門縁者の多くが後の坂東武士らの先祖にあたるため、「将門の怨霊」の方は坂東武士らにとって身近な「恐怖」だったに違いない。
そして、頼朝挙兵の24年前に勃発した保元の乱で敗れ、讃岐に流された崇徳上皇もまた、その「怨霊化」が恐れられた。その出現は安元3年(1177)、後白河院の周辺。崇徳上皇崩御から10数年後というから早い。
頼家の時代の鎌倉には京都からくだって来た大江広元、三善康信らがいたのだから、崇徳上皇の怨霊についても情報共有がなされていたのではなかろうか。
実際に鎌倉でも「怨霊」対策がなされていた。
義経、泰衡没後60年を期して永福寺建立の意味を再確認
鶴岡八幡宮、勝長寿院と並んで鎌倉三大寺院と称された永福寺(ようふくじ)は、「怨霊鎮魂」のために建立された側面も持つ。〈今日永福寺事始也〉と初めて『吾妻鏡』に登場した文治5年(1189)12月9日の記事には、〈数万の怨霊を宥め〉、とこれまでの合戦での戦死者の怨霊を宥めることを造立の趣旨として掲げている。
そのことは、北条義時のひ孫にあたる第五代執権北条時頼の時代の宝治2年(1248)2月5日の『吾妻鏡』によりはっきりとした記事で打ち出される。
主題は、永福寺の修繕を進めるように執権時頼の沙汰があったこと。その主題の説明で、「永福寺は文治五年に奥州で藤原泰衡、源義経(原文では義顕※)を征伐した後に、朝廷から陸奥・出羽両国の旧藤原領を支配するようにとの指示を受けた」(意訳)ことを説明したうえで、〈しかるに今、関東長久の遠慮を廻らし給ふの余り、怨霊を宥めんと欲す。義顕といい泰衡といい、さしたる朝敵にあらず。只私の宿意を以て誅亡の故也〉と、義経も泰衡も強敵ではなかったが、討ち取った。とはいえ、幕府の繁栄のために彼らの怨霊を宥めるための寺が永福寺だということを時頼の代に再確認しているわけだ。
ちなみに時頼が沙汰した翌年の宝治3年(1249)は、義経と泰衡が滅ぼされてから60年。十干十二支がひと回りした年にあたる。
永福寺は、頼家、実朝はもとより、藤原頼経、頼嗣の摂家将軍、宗尊親王など歴代将軍が花見、雪見、和歌の会などで訪れていることが『吾妻鏡』に記録されている。一見、単なる遊興のようにも思えるが、泰衡や義経ら戦死者の魂を鎮めるための「鎮魂行事」の側面もあったのではないだろうか。
近年、永福寺跡は史跡公園として整備されているが、奥州合戦の戦死者の鎮魂のための寺院であったことを忘れてはならないだろう。
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