頼朝落馬時にも「義経の怨霊」に襲われた?

『保暦間記』という南北朝期に成立した歴史書がある。保元(1156~1159)から暦応(1338~1342)までの歴史を編纂した書物で、建久9年の源頼朝落馬の原因が「怨霊」によるものだと記したことで知られている。

〈大将殿(頼朝のこと)相模河の橋供養に出て還らせたまひけるに、八的河原といふ処にて、亡されし 源氏、義広、義経、行家已下の人々現して、頼朝に目を見合けり〉と頼朝の命で滅ぼされた志田義広(頼朝の叔父)、義経(弟)、行家(頼朝の叔父)の怨霊が登場したことを記す。後段にはさらに安徳天皇や平氏の怨霊が頼朝の面前に現れたことを記載している。

頼朝落馬の際に、頼朝が滅ぼした面々がこぞって怨霊となって頼朝の面前に現れたというのだ。鎌倉でも「怨霊」の存在が身近だったことがわかる。

今も、頼家鎮魂を欠かさない修善寺

頼家墓所近くにある十三士の墓。

源頼家が病に倒れ、重篤な状況に陥ったことで発生した比企氏滅亡。頼家が病臥にあった際に、愛妾や乳母の比企氏が族滅に近い滅ぼされ方をしたうえに、頼家自身も惨殺される。前出の「怨霊出現」の事情を思うと、無念の死を遂げた「頼家の怨霊化」が恐れられたとしてもおかしくはない。

それを意識した政子によって「指月殿」が建立されたのではないだろうか。

もちろん、鎌倉の永福寺が「怨霊を宥めるために」建立されたと『吾妻鏡』に記載されたのと同じように、「指月殿」が頼家の怨霊を宥めるために造営されたという史料はない。

だが、修禅寺が長い年月にわたって、頼家追善を欠かしていない歴史がすべてを物語ってはいないだろうか。

修善寺には、「指月殿」に隣接して頼家の墓がある。現在の墓所は、死後500年経った江戸時代中期の元禄17年(1704)、当時の修禅寺住職が整備したもので、墓石には〈征夷大将軍左源頼家尊霊〉と刻まれている。

頼家墓石の周囲には、頼家亡き後、鎌倉で頼家の仇を取ろうと集結、北条義時が送った追手に討たれた「十三士の墓」もある。この事件は『吾妻鏡』にも記された事件の当事者のものだと思われる。平成17年(2005)の台風被害にあった際に200mほどの移動を余儀なくされたが、しっかり修復され、その歴史を今に伝えている。

北条氏によって、あまりに酷い最期を遂げた源頼家だが、亡くなって800年以上経過した現在も、毎年7月に「頼家忌」の法要が執り行なわれ、さらに地域の人々によって「頼家まつり」がにぎやかに開催されている。

長きにわたって頼家鎮魂の祀り、鎮魂の行事を続けている修禅寺や地域の人々の取り組みに敬意を表したい。

川をはさんで反対側に範頼の墓も

修善寺にある範頼の墓。

一方、頼家惨殺の11年前に殺害された源範頼(自害説も)の墓所も、頼家の墓所から桂川を渡った場所にある。明治に調査され、昭和7年(1932)に日本画家・安田靫彦によってデザインされた墓石が立つ。

頼家同様、非業の死を遂げた範頼だが、「指月殿」のような追善施設はない。なぜか?  頼家の男子は一幡、公暁、栄実、禅暁とことごとく非業の死を遂げ、根絶やしにされたが、範頼は、その子孫が吉見氏を称し、御家人として存続したことと無縁ではあるまい。

その修善寺には明治になって俳人正岡子規が吟じた句がのこされている。

〈この里に かなしきものの二つあり 範頼の墓と 頼家の墓〉――。

『鎌倉殿の13人』が放送されている2022年は、範頼、頼家いずれの墓所でも鎮魂の祈りを捧げる参拝者が増えているという。

※ 文治元年(1185)に源義経追討の宣旨が出た際に義経→義行。さらに義顕と改名させられた。九条兼実の次男良経と読みが同じだったのを憚ったため。

構成/一乗谷かおり

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