はじめに-後鳥羽上皇とはどんな⼈物だったのか
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、後白河法皇の孫で、鎌倉時代に院政を執った人物です。北条義時追討を謀って「承久の乱」を起こしましたが失敗し、隠岐(おき)に流されました。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇の孫で、文武に秀でた偉大なる帝王(演:尾上松也)として描かれます。
目次
はじめに-後鳥羽上皇とはどんな⼈物だったのか
後鳥羽上皇が生きた時代
後鳥羽上皇の足跡と主な出来事
まとめ
後鳥羽上皇が生きた時代
後鳥羽上皇は、源頼朝の挙兵を皮切りに源平合戦が繰り広げられた動乱期に生まれます。その後、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立、執権政治など、本格的な武家政権による統治が開始しました。その中で朝廷の頂点として長きにわたって院政を執ったのが、後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇の足跡と主な出来事
後鳥羽上皇は、治承4年(1180)に生まれ、延応元年(1239)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
高倉天皇の子として生まれる
後鳥羽上皇は、高倉天皇の第4皇子として生まれます。母は坊門信隆の娘・殖子(しょくし)です。寿永2年(1183)、平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後、祖父・後白河法皇の詔によって、わずか4歳で天皇の位につきました。三種の神器は平氏に持ち去られていたため、神器がない状態で天皇となったのでした。こうして安徳・後鳥羽両天皇が併立しましたが、文治元年(1185)平氏は壇ノ浦で滅亡、安徳天皇も入水しました。
院政を始める
当時は後白河法皇が院政を行い、政権を握っていましたが、建久3年(1192)に法皇が没すると、法皇と対立していた関白・九条兼実(くじょうかねざね)が実権を握りました。源通親(みちちか)ら法皇の旧側近はこれと対立し、その後通親は策謀によって兼実を失脚させ、政権を握ったのでした。建久9年(1198)、後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位。上皇として院政をはじめ、承久3年(1221)まで、土御門(つちみかど)・順徳・仲恭(ちゅうきょう)天皇の3代にわたり院政を行いました。
院政開始後も通親が実権を持っていましたが、建仁2年(1202)に通親が没した後は後鳥羽上皇の独裁となります。上皇は貴族間の党派的対立を解消し、すべての貴族に支持される体制の樹立を図り、九条家をはじめ、通親の全盛下に不遇であった人々をも重用しました。
軍事面では「西面の武士」を置いて直属軍を強化はしていますが、幕府打倒のためではなく、むしろ将軍・源実朝との関係を密にし、公武の融和に努めたのでした。そのことは、生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下したことからもうかがえます。また「武者の世には帝王にも、武芸のたしなみや軍事力が必要だ」という考えのもと、水練、相撲、狩猟などをたしなみ、刀剣を製作・鑑定したと伝えられています。
次第に幕府と対立していく
当初は円滑だった公武関係でしたが、執権・北条氏を中心とする勢力は、上皇と対立しました。上皇が将軍を介して御家人の権益を侵すことを警戒したからでした。そのため両者の関係はしだいに悪化し、承久元年(1219)実朝が殺されると、上皇はついに討幕を決意します。
実朝の死後、幕府は後継として上皇の皇子を将軍に迎えようとしましたが、幕府の瓦解を期待する後鳥羽上皇はこれを拒絶。さらに、上皇は寵姫・伊賀局(いがのつぼね)の所領である摂津国・長江(=現在の兵庫県尼崎市)、倉橋(=大阪府豊中市付近)両荘の地頭の廃止を要求します。幕府はこれを拒み、上皇との対立はさらに深まったのでした。
「承久の乱」を起こす
後鳥羽上皇は、討幕計画を進め、承久3年(1221)執権・北条義時追討の宣旨を発して挙兵。「承久の乱」が起こります。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時らに率いられた幕府軍が大挙し京都に攻め上ってきたのでした。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領されてしまいました。
上皇は鳥羽殿に幽閉され、出家したのち、隠岐の島へ配流されました。その後18年間、和歌に心を慰め、仏道に励むわびしい生活を送りましたが、延応元年(1239)2月22日、60歳で没したのでした。
その後同地で火葬され、遺骨は山城大原の西林院(一説に勝林院)に移され、のち仁治2年(1241)大原の法華堂に安置されました。御陵は京都市左京区の大原陵と島根県隠岐郡海士町の火葬塚とがあります。
文化面
和歌にすぐれた上皇は、「和歌所」を設置し、すぐれた歌人を集めます。そして、彼らの協力で元久2年(1205)に、『新古今和歌集』を勅撰し、隠岐配流後に至るまでみずから追加・削除を行なったとされています。また、上皇は、蹴鞠・琵琶・秦箏・笛などの芸能にも優れていました。
さらに、多数の御領荘園を所有するため、豊かな財力によって各所に邸宅を造り、院政期間における邸宅の造営・移転は18回を数えます。特に水無瀬・鳥羽・宇治には壮麗な離宮を営み、そこに赴いて遊宴を行なったと伝えられています。
洛中・洛外の社寺・名勝への御幸も多く、特にあつく熊野を信仰し、参詣は約30回に及びました。著書には『新古今和歌集』のほか、日記や、歌集、歌論書、仏書、有職故実書などがあります。
まとめ
文武両道の多芸多才ぶりで知られる「後鳥羽上皇」。彼が引き起こした承久の乱は、朝廷対武士の武力対決を引き起こし、朝廷が武士によって打ち負かされる結果となりました。その後の武士の時代を決定づけたこの戦いの裏には、長きにわたって世を治めた上皇の存在があったのです。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)