京都1200年の歴史を遡れば、実に多くの歴史人が存在したことを改めて知ることになります。歴史上さまざまな事件や出来事が起こり、それらに関わってきた歴史人たちは、紛れもなく日本史を作ってまいりました。

ある者は天下統一の野望を抱き、ある者は壮大な建造物を築き、ある者は現代人をも魅了する芸術作品を残し、ある者は文学作品詩歌を通して今も人々の心を震わせます。

そんな歴史を作った人物の多くが京都の地に眠っています。「サライ京都チャンネル」では、それぞれの時代に活躍した人たちの墳墓を訪れ、歴史人を偲びます。日本人の歴史を紐解くことは、日本文化の成り立ちや奥深さを理解することとなり、真の温故知新となることでしょう。

第一回は、織田信長が創建に関わったとされている『大徳寺塔頭 黄梅院(おうばいいん)』に眠る戦国時代の名将名高き・蒲生氏郷公とのゆかりを住職・小林太玄氏(以下、太玄住職)に尋ね、墓参いたしました。

普段は非公開の寺院ですが、特別に取材を受けていただいております。

織田信長の上洛時の出会いが「黄梅院」建立のきっかけに…

黄梅院の本堂から眺める石庭、破頭庭

織田信長が京都に初めて来たのは、28歳頃のこと。当時、大徳寺におられた春林宗俶(大徳寺98世)との出会いをきっかけとして、信長の父・信秀の追善菩提のために小庵「黄梅庵」を建立しました。造営に携わったのは、当時、寺社奉行であった羽柴(後の豊臣)秀吉です。

父・信秀の葬儀の焼香の際に、信長は位牌に向かって抹香(まっこう)を投げつけ、“うつけ者”と呼ばれたエピソードはあまりにも有名ですが、「信長は、父・信秀に対する人並みならぬ思いがあったのでしょう。だからこそ、京都に『黄梅庵』を建立したのです」と太玄住職は語ります。

「黄梅庵」の由来は、中国の黄梅県に現存する“破頭山東禅寺”です。春林宗俶の25回忌を機に、天正17年(1589)に2代目法嗣玉仲宗琇(大徳寺112世)が客殿(現本堂)を落成し、改めて塔頭黄梅院として発足しました。その時にも力を貸したのが、秀吉でした。

織田信秀の墓所

黄梅院には、織田信秀の墓所のほか、毛利家、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔があります(非公開)。また、院内にある秀吉の軍旗「千成瓢箪」を象った空池を配す「直中庭」は、千利休が作庭したもの。黄梅院は、安土桃山時代の戦国大名や文化人とのゆかりが深い寺院だということがわかります。

千利休が作庭した直中庭

黄梅院に眠る、名将・蒲生氏郷。死因は謎とされているが…!?

滋賀県日野町にある、蒲生氏郷公像

黄梅院には、名将として名高い戦国大名の蒲生氏郷公が埋葬されています。蒲生氏郷は、弘治2年(1556)に近江国蒲生郡日野中野城の城主・蒲生賢秀の三男として生まれました。永禄11年(1568)、織田信長の元に人質として送られます。文武両道に秀でた氏郷は、信長に才を見出され、信長の息女・冬姫を妻にしました。また、未だ10代であった氏郷を大将にして戦地に赴かせたとも言われ、信長の寵愛を一身に受けていた人物です。

天正10年(1582)本能寺の変の際には、明智光秀の要求には応じず、信長の妻子を日野にかくまったとされています。信長の死後は、羽柴秀吉に従い、戦功により伊勢松ヶ島12万石に移封。松坂城を築き、城下を整備しました。

天正18年(1590)の小田原役後は、秀吉が氏郷を奥羽の要として会津黒川42万石に転封。その後、文禄元年(1592)に会津黒川を会津若松と改名し、城下の整備を進めました。しかしながら文禄4年(1595)2月7日、京都の伏見で病死したとされています。この時、蒲生氏郷は40歳。当時の時代状況を鑑みても、病死というにはあまりにも若すぎる死でした。

会津黒川城主に転封の折、日野城近くの若松の森にちなみ若松の名称に改めた。上記画像の「若松の森趾」の松は、氏郷公が遠く会津の地より故郷を懐かしんだ名残りの松

▷1980年代に、蒲生氏郷公のお墓を改修

40年余り前、お墓の改修ため発掘され和尚によって洗骨、改葬されたそうです。当時の様子について太玄住職に話をうかがいました。

「長年、手入れをしていなかったため、洗骨・改装するために、蒲生氏郷公のお墓を改めました。信楽焼の瓶に入った蒲生氏郷公の骨はしっかりした状態で残っており、刀を抱いていました。

墓の改修をするという話を聞きつけた、ある学術機関からは“蒲生氏郷公の死の真相を確かめよう”という申し入れがありましたが、お墓を守る住職として亡くなった人に鞭打つようなことはしたくないと断りました」と太玄住職。

小林太玄住職(83歳)

蒲生氏郷公は病死とされていますが、一部には毒殺説も囁かれています。「死の真相を知るということは面白いことかもしれませんが、すでに亡くなった方たちですから、安らかに眠っていただきたいですね」と太玄住職は鷹揚に話します。

▷蒲生氏郷公の辞世から、太玄住職が感じること

蒲生氏郷公は下記のような辞世を残しています。

限りあれば吹かねど
花は散るものを 
心みちかき春の山風

蒲生氏郷公の墓所の横には、辞世が刻まれた石碑がある。墓所には、蒲生氏郷顕彰会の方が花を供えていた。

この辞世について、太玄住職の解釈をお聞きしました。

「“命には限りがあるじゃないか、花がせっかく咲いたのに、どうして風は吹き落とそうとするんだろう。花は自然と散っていくのに……”という意味合いではないでしょうか。ここでいう“花”は蒲生氏郷公自身を指していたのではないかと解釈しています。そういうところから推察すると、毒殺説も頷けるような気がするのです」

***

「蒲生氏郷公は、天下をとってもおかしくなかった人物ではなかろうか」、と太玄住職は最後におっしゃいました。

蒲生氏郷公の足跡は今もなお、生まれ故郷である滋賀県蒲生郡日野、転封先の三重県松阪市、福島県会津若松市の地に多く残されています。令和の世である今も、彼を支持する人は多く、蒲生氏郷顕彰会という組織があることも一つの表れかもしれません。

■大徳寺塔頭 黄梅院
創建年:永禄5年(1562)
所在地:京都市北区紫野大徳寺町83-1
交通:市バス大徳寺前より徒歩約2分
※通常非公開、春と秋に特別拝観の期間があります。

企画・編集・動画/貝阿彌俊彦・末原美裕(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com

 

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