近代日本の経済を支えた渋沢栄一氏。数多くある功績の中でも特に、銀行制度を導入した人物として彼をご存じの方が多いのではないでしょうか。

その働きは、それまでの社会の仕組みを一変させ、日本を近代化を推進しました。では、栄一氏は一体どのような姿勢で銀行経営に取り組んだのでしょうか?

この連載では「曾孫が語る渋沢栄一の真実」と題し、渋沢雅英先生の全7回のインタビュー動画を交え、深掘りしていきます。第3回目は、「新たな『ナショナル・リーダー』としての渋沢栄一」について、渋沢雅英先生が渋沢栄一氏の軌跡を辿りながら解説します。

※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp)からの提供です。

渋沢雅英(しぶさわまさひで)
渋沢栄一曾孫/公益財団法人渋沢栄一記念財団相談役。
1950年、東京大学農学部卒業。
1964年、(財)MRAハウス代表理事長に就任。
1970年よりイースト・ウエスト・セミナー代表理事を務めた。
日本外国語研究所代表理事でもある。
1982~84年まで英国王立国際問題研究所客員研究員。
1985~86年、1989~90年、アラスカ大学客員教授。
1992~93年、ポートランド州立大学客員教授、
1994年~2003年まで学校法人東京女学館理事長・館長を務めた。
1997年~2020年まで公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長。
主な著書に『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1950年)、『日本を見つめる東南アジア』(編著、サイマル出版会、1976年)、『太平洋アジア――危険と希望』(サイマル出版会、1991年)、『【復刻版】太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯―』(不二出版、2017年)がある。

「ナショナル・リーダー」としての出発

明治政府の役人を辞した栄一氏は、自ら起草した国立銀行条例に基づいて、第一国立銀行の経営を実践しました。その中で鉄道の設立計画に際して、旧藩主らが出資に協力してくれたことは、栄一氏に確かな信用力があったことを物語っています。新政府での実績や人脈が、事業家としての彼のクレディビリティ(credibility: 信頼性)を形作ったのです。

渋沢雅英先生

およそ10年前には高崎城乗っ取りを考える攘夷の実力行使派だった栄一氏は、一橋家の家臣、フランスでの留学、新政府の役人を経て、銀行の頭取となりました。こうした10年という歳月で栄一氏は違う人間になった、と雅英先生は考えます。資本主義を確立させる新たな「ナショナル・リーダー」へと変化していったのです。

●近代日本の為に、新たなリーダーとしての歩み

雅英先生は、銀行を作り上げる栄一氏の姿勢を、「国をどうにかするという遠大なる目標に向かっていた」と評します。自らの儲けではなく、国益の為に尽力するその姿勢は人にも伝わりました。だからこそ、栄一氏は信頼されたのです。

彼を変えた「奇跡の10年」の間に信用を築き上げ、栄一氏は新たなリーダーとして立ち現れました。その後、43年にわたって、第一国立銀行(のちに第一銀行)の総監役そして頭取を続け、近代日本そのものを経営することとなります。

「ナショナル・リーダー」としての出発 講義録全文

渋沢雅英先生の講義録を以下に全文掲載して、ご紹介いたします。

●銀行も銀行制度も自らつくった渋沢栄一

左が渋沢雅英先生

――エピソードとしては、大久保利通との話が残っています。当時、最大の権力者であり実力者といえば大久保だと思います。その彼が、「軍の整備のためにこれだけ(予算を)寄越せ」と言ってきたのに対し、渋沢栄一さんが憤然と楯突き、喧嘩をしたということで、時の権力者に思い切り楯つくということまでされたわけですね。

雅英先生 「入るを量りて出ずるを為す」というのでしょうか。つまり、入ったものが分からなければ、出すほうは決められないよ、といういわば正論ですよね。今の政府もあまりやっていないようだけれども(笑)、それを主張したのです。それで、大久保さんとはあまり仲がよくなくなったみたいだけれども、栄一の官僚としての、あるいはリーダーとしてのステータスは上がりました。たった 3 年半で、一種の人間的な幅ができた、ということでしょうか。

――ですよねえ。

雅英先生 銀行設立準備を進めているなかで、政府を辞める。当時は政府の役人になるのは大変有利なことで、みんななかなか辞めない時だったのですけれども、率先辞めて、民間に下るということをします。そして、それができると今度は銀行を足場にして、王子製紙の工場を開業させるとか、つまり近代化に本気になるという場をつくったわけです。

――しかも、栄一さんの場合は、銀行制度自体をつくるのにも関わっておられた。制度をつくり、自分で銀行を動かすということですね。大蔵省に勤めていた時に「国立銀行条例」を起草して、ご自身で「第一国立銀行」を開設されたということなのですね。

雅英先生 西洋式金融機関の初めの第一発ですね。その責任者になったのは、三井家などいろいろな出資者たちの同意や頼みに応じたわけで、最初は「総監役」という役職に就きます。

その後 41 年、栄一は頭取勤めをするわけですけれども、それが一つの足場になり、いろいろな人と語り合って鉄道をつくる計画などに結びついていった。そういう構想は政府にいたときもあったかもしれないけれど、鉄道をつくるなど、そう簡単にできるものではないですよね。そこで、蜂須賀茂韶(旧徳島藩主)とか伊達宗城(旧宇和島藩主)とか、そういうお大名のお金をたくさん…。

――貯蓄といいますか、お預かりした。

雅英先生 お預かりして、それで鉄道をつくって、配当をお返しするという資本主義のあり方を実践しようとした。その他にもお金持ちの方はいっぱいいたでしょうし、そういう方たちが栄一の言うことに賛同してくれたのは、彼の信用力というのかな、信憑性というものができていたのでしょうね。

新政府でなかなかやってきた実績もあれば、人脈も、前回申し上げたように伊藤博文や井上馨など、いろいろな人を知っている。それで、事業家としての栄一のクレディビリティ(credibility: 信頼性)というものができたわけでしょうね。

だから、いろいろな人から、「ぜひうちへ来てくれ」と頼まれた。三井家なども、「三井の番頭さんになってくれ」と言ってきた。三井家は十何軒の家が集まってできている大きな財閥ですけど、その当主の皆さんが集まって、栄一夫妻をご馳走するという騒ぎもあったようです。

●妻・千代の功績とナショナル・リーダーとしての出発

雅英先生 栄一の奥さんの千代さんという人は、深谷近在の農家のお嬢さんでした。それが急に静岡に来たかと思うと、東京に出て明治の官僚の奥さんになり、それから銀行家の奥さん、つまり実業界の夫人になる。そういう変化に、どうして田舎のお嬢さんが対応できたのか、というのが私の疑問です。

でも、彼女にはできた。だから、栄一はその奥さんを非常に頼りにしました。忙しい栄一は、多彩な人を呼び集めては、自宅でいろいろなことをやりました。銀行業の将来などについての会合などですが、そういう趣旨をいちいち理解してご馳走をつくったりもてなしたりするのは、奥さんの功績でした。

だから、栄一という人は非常に恵まれていました。今まで申し上げてきたのは、「奇跡の 10 年」のあらましですが、その 10 年間に栄一は違う人間になったと私は思うのです。

――違う人間になったわけですね。

雅英先生 高崎城乗っ取りを考える攘夷の実力行使派だったのが、一橋家に行き、フランスに行き、明治政府で働いたわずか 10 年の間に(奇跡が起こり)、そこから出てきて銀行の頭取に収まった時には、全然違った「ナショナル・リーダー」になっていたということだと思うわけです。

それを世の中もそれなりに意識して、ファミリーを呼んだりなどして大事にしてくれました。もちろん栄一は「三井の番頭さん」にはならなかったわけで、「私は第一国立銀行でやります」ということで頑張っていき、43年の間にそれなりの成果を挙げたのでしょうね。

●儲けより国益を考えた新しいリーダーの誕生

――そうですね。しかし、いわゆる西洋式の銀行というのは、お金を融資して、事業を興すとか、株式会社の仕組みなどの胴元といってはおかしいですけれど、資本主義の中でいろいろ道をつけてあげたり、非常に重要な機能を担わなければいけないわけです。そうした銀行の仕組みを、全然違う社会組織であった日本において理解するというのは、かなり難しい。

本来であれば難しいことだろうと思うのですが、フランスに行かれた時に、フロリ・ヘラルド(フリューリ・エラール)さんという銀行家と懇意になって、いろいろお付き合いの中で学んでいかれた部分もあると思います。それにしても、資本主義の仕組みというのはこういうものだというのが、なぜパッとお分かりになったのでしょうか。

雅英先生 それは私にも分からない(笑)。『渋沢栄一伝記資料』をご覧になると、その時、誰とどういう話をしたとか、非常に詳しく書いてありますから、そういうことから類推して考える他ないと思います。

銀行のことをどうして分かったのかは、私も分かりませんけれども、その肝はつかんでいたのでしょうね。銀行をつくる法律的な基盤は明治政府の役人の時に手がけましたしね。

――自分でされましたね。

雅英先生 ええ。そして、明治の元勲と称する人たちが、「これは必要なことだからやれ」と言ってバック(アップ)してくれた。また、栄一にはそういうことを説明する能力もあったでしょうしね。あの人は、「銀行をつくってお金持ちになろう」という感じはまったくない人でした。

――「自分が儲かろう」ではないということですね。

雅英先生 ないですね。それより、国をどうにかするという遠大なる目標に向かっていたのでしょう。人は、それをやっぱり分かるのでしょうね。だから栄一を信頼するのでしょう。投資して、つまりお金を栄一に渡して運用させるわけだから、信用しなければ運用させない。そういう信用があったのでしょう。それはなぜかとおっしゃられても、私にはちょっと説明のしようがないけれども、それが「10年の奇跡」の間に、いつの間にかできてしまい、新しいリーダーが誕生した、と。

他にもいっぱいいたと思いますが、栄一が最右翼というか一番有名で、割ともてはやされ、三井家からも「来てくれ」、岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)からも「ぜひ俺と一緒に」と言われたりした。あの頃は人が少なかったからできたのかもしれないけど、とにかくそういうリーダーとして立ち現れたということなのでしょう。

***

「奇跡の10年」を経て、日本の「ナショナル・リーダー」として出発した歩みをたどりました。自らの利益ではなく、国全体の発展を目的に据えた栄一氏。彼のリーダーとしての姿勢は、当時の人々だけでなく、時代を超えた私達をも魅了するものなのではないでしょうか。

協力・動画提供/テンミニッツTV
https://10mtv.jp
構成/豊田莉子(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com

 

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