取材・文/柿川鮎子

イアン・フレミング原作のスパイ小説、007の主人公といえばジェームズ・ボンド。映画は1962年の「007は殺しの番号、ドクターノオ」から数えて、2015年「007スペクター」まで本編だけでも24作が存在し、2021年10月には最新作の公開が予定されています。ジェームズ・ボンドは世界一有名なスパイといえるでしょう。

しかし、野鳥好きにとっては、ジェームズ・ボンドという名前はスパイであると同時に、米国の著名な鳥類学者の名前として知られています。著者イアン・フレミングは主人公の名前を実在の鳥類学者からとって名付けたことを明らかにしています。

映画の中でもその事実には触れられており、2002年公開の「007 ダイ・アナザー・デイ」で、ボンドがヒロインに対して「私は鳥類学者なんだよ」と身分を偽り、双眼鏡と鳥の図鑑をカウンターに置くシーンが印象的でした。

自分が知る限り最も地味な名前を主人公に

なぜ、フレミングはスパイの名前を実在の鳥類学者からとったのでしょう。週刊誌ニューヨーカーのインタビューページで、ジェームズ・ボンドの由来を「自分が今まで聞いた名前の中で “dullest name” であったからだ」と答えています。dulleは鈍いとか、鈍感な、さえない、面白くない、退屈な、という意味があり、フレミングは主人公にそうした地味な名前を付けたかったのです。

地味でさえない名前をもつ主人公が、難しい事件を華麗に解決していく。主人公の活躍を目立たせるためには、できるかぎりdullest nameであるべきだ、イアンフレミングはそう考えて主人公をジェームズ・ボンドと名付けたようです。

この方が鳥類学者のボンド博士(1900~ 1989年)。米国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。英国パブリック・スクールのハーロー校からケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジを卒業した後、3年間、銀行員を務めた経歴をもっています。

イギリス人にとって野鳥趣味は紳士の嗜み

鳥好きにとって重要なのは、フレミングが鳥類学者ジェームズ・ボンドという名前を知っていたこと。ジェームズ・ボンドが書いた鳥の図鑑に親しみ、愛読していた点にあります。

フレミングはイギリス、ウエストミンスター・メイフェア生まれで、政治家の父をもち、陸軍士官学校を卒業した後、ロイター通信に勤務し、戦時中は英海軍情報部で活躍しました。野生動物に関係するような生物学者でもなく、野鳥や自然環境にかかわる仕事をした経歴はありません。単純に個人的な趣味として野鳥に親しみ、鳥の図鑑を愛読していたわけです。

自然な姿のままの野鳥を観察する楽しみを、趣味として確立させたのはイギリスです。世界で最も早い1889年、現在の英国王立鳥類保護協会(RSPB:Royal Society for the Protection of Birds)の母体が創設されました。イギリス人にとって、野鳥趣味というのは日本人が茶道や華道に親しむイメージで、文化人としての嗜み、紳士の趣味といった感覚でしょうか。第二次世界大戦後の世界状況について、チャーチルがトルーマンとともに野鳥観察小屋で密談したと伝えられています。日本ならば、茶室で談義ですね。

英国紳士・フレミングも野鳥に親しみ、大好きな野鳥図鑑をいつも手元に置き、野鳥の名前を調べていたのでしょう。ジェームズボンド著、図鑑・西インド諸島の鳥(Birds of the West Indies)はフレミングがバカンスや執筆のために使っていたジャマイカの別荘にも残されていました。スパイ小説の構想を練り、主人公の名前を考えた時、dullest nameとしてジェームズ・ボンドが浮かびました。いくらdulleとはいえ、鳥類学者の名前がジャック・スミスやオリバー・テイラーだったら、007の魅力はずいぶん違ったものになったかもしれません。

西インド諸島に生息する約400羽以上の鳥の特徴と生息地に関する詳細な情報が掲載された図鑑です。

名前を使っていただき、心より感謝します

フレミングのおかげで、ジェームズ・ボンドは洗練された世界一カッコいいスパイの名前となりましたが、鳥類学者ジェームズ・ボンド博士はdullest nameと呼ばれてどんな気持ちでいたのでしょう。本心については知る由もありませんが、生前、二人が仲良く並んで談笑している写真が残されています。

鳥類学者ジェームズ・ボンド博士が亡くなった後、夫人がインタビューを受け、「夫の名前を使っていただき、フレミング氏には心より感謝している」と発言しました。夫人の言葉からも、名前をめぐるトラブルは無く、英国人作家と米国人鳥類学者の間には温かい友情すら感じられます。

鳥類学者として大活躍したジェームズ・ボンド博士

ボンド博士は鳥類学上、重要な足跡を残しました。今でこそ、遺伝子研究が進み、鳥の分類や祖先について、科学的に明らかにすることは簡単ですが、1920年代にそんなものはありません。博士は一羽ずつフィールド調査をしながら、どの鳥がどの鳥と似ているか、生息地と特徴を細かく調べました。実に根気のいる作業です。調査によるデータを分析した結果、北アメリカ祖先の鳥と、南アメリカ祖先の鳥を分け、「ボンド線」という境界線をつけて発表しました。

ボンド線は単に「野鳥の祖先の違いを線で明らかにした」だけではありません。野鳥がどのように移動して生息地を広げていったか。さらに拡大して、今後はどうなっていくのかを知る手掛かりにもなり、野鳥保護の面からも意義のある研究といえるでしょう。ボンド博士の行ったフィールド調査は重要で、野鳥の未来につながる価値のあるものでした。

こうした研究実績は業界内では高く評価されており、1954年にはアメリカ鳥類学連合からブリュースター勲章を授与されたほか、1975年にはフィラデルフィアの自然科学アカデミーからライディ賞を受賞しています。また、イアン・フレミングが愛読していた図鑑は1936年に発売された直後からベストセラーとなり、修正を加えながら長い間、版を重ねました。鳥類学においては、スパイのジェームズ・ボンドも顔負けの大活躍をした人物でした。

今年10月に公開予定の007最新作ではどんな活躍を見せてくれるのか。ダニエル・クレイグが双眼鏡をもち、鳥類図鑑を抱えていたら……と想像しながら、世界中の鳥ファン達がジェームズ・ボンドの活躍を楽しみにしています。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)、編集協力『フクロウ式生活のとびら』(誠文堂新光社)ほか。

 

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