文・晏生莉衣
1年を超える長期戦となった新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大問題。世界の状況の変化とともに注目点も刻々と変わってきていますが、このところよく見聞きするようになったのが「アルファ株」「デルタ株」といった変異ウイルスの呼び方です。アルファもデルタもギリシア語のアルファベットで、WHO(World Health Organization:世界保健機関)の奨励によって、変異した新型コロナウイルスをこのようにギリシア語のアルファベットを用いて呼ぶようになりました。
よく聞くものも含めて、現在のところ、以下のような変異株があります。
▲「アルファ」:英国
▲「ベータ」:南アフリカ
▲「ガンマ」:ブラジル
▲「デルタ」:インド
△「イプシロン」:アメリカ(カリフォルニア州)
△「ゼータ」:ブラジル
△「イータ」:多数国
△「シータ」:フィリピン
△「イオタ」:アメリカ(ニューヨーク州)
△「カッパ」:インド
△「ラムダ」:ペルー
ギリシア語アルファベットについては、異なる発音によるカタカナ表記がされることがありますが、ここでは日本の国立感染症研究所で使われている表記に合わせています。
WHOは▲マークの「アルファ」から「デルタ」までを「懸念される変異株」、その後に続く△マークのものを「注目すべき変異株」と分類しており、呼称のあとに記されているのは変異株が最初に発見された場所です。WHOの指針が発表される以前は、メディアでは、変異株が最初に発見されたこれらの国名を取って、アルファ株は「英国型」、デルタ株は「インド型」といった呼び方がされていました。
よく理解したい目的と意図
そんな中、WHOが変異株をギリシア語のアルファベットで呼ぶことを推奨するようになったのには、大きく二つの目的があって、一つはわかりやすさです。専門家の間では、B.1.1.7系統、B.1.617.2系統というような分類がされていて、一時は日本のメディアでもこうした系統を使って解説されることがありました。しかし、この分類では、一般の人には覚えにくくとてもわかりづらいですから、公共機関やメディアが新型コロナウイルスの情報をよりシンプルに、わかりやすく伝えることができるようにと、WHOが覚えやすい呼称を考案して提唱したということです。
WHOのもう一つの目的は、国を特定する呼び方をやめることで、差別やレッテル貼り、偏見といったスティグマを防ぐことです(スティグマについてはレッスン5(https://serai.jp/living/391052)参照)。ある国で最初に発見されたからといってウイルスがその国で発祥した、あるいは変異したということではなく、どういう経緯をたどったのかは科学的に明らかではないのですが、発見された国と結びつけて呼ぶことで、ウイルスに汚染されていて危険な国だというような「レッテル貼り」がされ、差別が生まれてしまう可能性が出てきます。実際、新型コロナウイルスを「チャイナウイルス」と繰り返し呼んだことで、アメリカではアジア系の人たちへの暴力事件や差別が増加したという社会現象が起こっていて、日本人の方々の被害も報告されています。
この、差別や偏見を生まないようにするという二つ目の目的は、私たちの生活に直接関係してくるもので、とても大切なことなのですが、日本のマスメディアにはWHOのこの意図がなかなか伝わっていないようです。日本を代表する大手メディア機関であっても、国と変異株を結びつける記事がいまだにスタンダードになっています。
現在、世界的に猛威を振るっているデルタ株についてみてみると、
“インドで確認された変異ウイルスの「デルタ株」”
“インドで最初に見つかった変異株(デルタ株)”
“感染力が強いとされるインド型(デルタ型)”
“インド由来の変異株「デルタ株」”
といった書き方が目に付きます。WHOが提案したギリシア語の呼称は使っているものの、特定の国名を使うことで生じる差別や偏見を避けるという肝心の意図は無視されてしまっています。
これに対し、世界の主要英語メディアをみると、「Delta variant」(デルタ変異株)と表現されるのが一般的で、インドといった国名は使われていません。差別や偏見に関する人権感覚の国際的な差が、マスメディアのこんなところに出ているように感じられます。差別や偏見の助長とならないよう、日本のメディアには再考と適切な対応を促したいと思います。
なぜ、ギリシア語アルファベット?
話は振り出しに戻って、WHOによると、呼称を選ぶにあたっては各国の専門家たちによる協議を数ヶ月かけて行った上で決定したということですが、なぜギリシア語のアルファベットとなったのかという具体的な説明はされていません。総じて考えると、わかりやすさという点では、英語を始め、世界の多くの言語のアルファベットはギリシア文字のアルファ(α)とベータ(β)に由来するとされていますから、世界の多くの人たちにとって大変馴染みのあるアルファベットだと言えます(レッスン基礎編20(https://serai.jp/living/375315)参照)。
日本人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、最初の4つのアルファベット、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタは、新型コロナウイルス問題発生以前から理数科系の分野でいろいろな用語として使われていますし、昨今はベータ版(β版)などIT用語としても身近になってきているので、聞き慣れている感はあるのではないでしょうか。
そして、そもそも「コロナウイルス」は、ウイルスの表面に出ている突起が王冠のような形に見えることから、ギリシア語で冠を意味する「コロナ」(corona)という名がつけられたとされていますので、新型コロナウイルス変異株をギリシア語にちなんで呼ぶのは自然な選択とも言えるのでしょう。
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ギリシア語のアルファベットは24文字。アルファから始まり、オメガで終わります。
「わたしはアルファであり、オメガである」
キリスト教の教養のある方は、新約聖書の「ヨハネの黙示録」にあるこの一節を想い起こされるかもしれません。天地の創造主であり、最後の審判を下す方の言葉で、初めであり、終わりである、万物、すべてのもの、といった意味に解されています。新型コロナウイルス変異株の呼称となったことで、改めて、深遠なる思想の探索ができそうです。
<参考>
・WHO, Departmental news, 31 May 2021
・WHO, Activities, Tracking SARS-CoV-2 variants
・WHO, Weekly epidemiological update on COVID-19, 29 June 2021
・国立感染症研究所、「感染・伝播性の増加や抗原性の変化が懸念される新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新規変異株について(第10報)」2021年7月6日18:00時点
文・晏生莉衣(Marii Anjo)
教育学博士。20年以上にわたり、海外研究調査や国際協力活動に従事。平和構築関連の研究や国際交流・異文化理解に関するコンサルタントを行っている。近著に国際貢献を考える『他国防衛ミッション』(大学教育出版)。