取材・文/坂口鈴香
ファイナンシャルプランナーとして、終活に力を入れて活動をしている日高了さん(仮名・54)は、15年前父親を在宅で看取った。手術は受けないと決め、その後も医療は拒否したままだった。手術を受けさせないという判断は間違っていなかったとは思う。しかし、父に手術を受けさせたらどうなっていただろうとは、今も自問する。
その経験があったせいか、認知症になった母親はサ高住に入ったが、肺炎で入退院を繰り返し、最期はたくさんの管につながれて亡くなってしまった。そう苦しそうに見えなかったこともあり、また回復して退院できるだろうと考えていたからだ。日高さんは、父親のときとは対極となる無駄な延命治療をしてしまったのではないかと悔やんでいる。
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両親のために兄弟が仲たがいしたくなかった
日高さんは、両親のことを尊敬していると言い切る。
「とにかく、いつも穏やかでした。母は認知症が進んでもいつも優しく笑っていて、それが私たち家族には救いでした。暴言を浴びせられる家族とは、気持ちがまったく違うと思います。兄の家族もよくやってくれました。姉も協力的でした。私一人に介護を押しつけず、兄に介護をするように言ってくれたのも姉です。姉がいなかったら、兄と両親の介護をめぐってケンカになっていたと思います。両親のためにも、兄も私も、自分たちが仲たがいしてはいけないという気持ちが強かった。だから両親も私たちのために穏やかでいようと思ってくれていたのかなと思います」
両親への思いは、二人が亡くなったあとも強くなりこそすれ、弱まることはない。そして「あのときは、これでよかったのだろうか」という問いへの答えは今も出ない。
「介護に正解はありません。でも残された側は正解がほしい。だから、今私は終活に取り組んでいるんだと思います」
「もらっちゃった」というわけにはいかない
日高さんは、今も自問を続けている。というのも、日高さんにとって、介護が終わったわけではないからだ。
日高家には、父の弟、妹2人がいて、介護問題は現在進行形なのだ。しかも3人とも独身だ。
だが叔父、叔母への向き合い方は、日高さんと兄姉とではまったく違うという。
「穏やかで尊敬できた両親に対して、叔父や叔母はきつい性格。自分たちの家柄の良さや学歴を鼻にかけていて、私たち兄弟も幼いころから強烈な学歴圧力をかけられてきました。プライドが高すぎるので、3人とも結婚できなかったんでしょう。昔から彼らが苦手だったし、反発していたので、これまで連絡することはほとんどありませんでした」
そんな関係が変わったのは、父親が亡くなって数年後のことだった。まだ独身だった日高さんに叔父から突然連絡が来たという。
「具合が悪くなり、困っているので助けてほしい、と言うんです。病院に行きたいので、車に乗せて行ってくれないか、と」
兄姉は隣県にいたし、家庭がある。日高さんは当時母親と二人暮らしで、叔父と叔母が暮らす家とはそう遠くないことから、日高さんに連絡が来たのだろうと考えている。ファイナンシャルプランナーである日高さんは、そのときまだ叔父に反発する気持ちは残っていたものの、別の思いも芽生えていた。
「父と同じように、叔父も一高、今の東大を出ていて、大企業の幹部にまで上りつめた人。ずっと独身だったので、一介のサラリーマンにはとうてい貯めることのできない財産を持っています。もし遺産を相続することになれば、叔母以外に私たち兄弟もかなりの額をもらえることになるでしょう。何もしていないのに、『もらっちゃった』というわけにはいかないだろうと思ったんです」
職業柄なのか、日高さんの正直な思いだろう。日高さんは、叔父を病院に送迎し、叔父が入院してからは何度も見舞い、世話もした。
「といっても、車を出したって『小遣いだ』と言ってくれるのは月に1万だけ。お金を持っているのにケチだな、もっとくれたっていいのに、とは思いましたけどね」
さらに、退院後は「もう来なくていい」と言われたと苦笑する。
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取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。