蕎麦屋の椅子に腰をおろし、「もり蕎麦一枚、お願いします」と注文するときの気分は、鮨屋に入って「コハダ、握ってください」と言うときの気持ちに、ちょっと似ている。まるで「通」になったような雰囲気を味わえるのだ。通は、もり蕎麦。もりを食べなきゃ通じゃない。これが昔から、江戸の蕎麦好きの人々の、合い言葉のようになっていた。
もり蕎麦は、店によっては、せいろなどとも呼ばれる。要するに蕎麦切りを器に盛っただけの、基本のメニューだ。値段も品書きの中では一番安く、もり蕎麦を頼むことを恥ずかしく思ったりする人もいる。しかし、「もり」「せいろ」は、蕎麦屋が最も力を入れているメニュー。この蕎麦が旨くなかったら、ほかのメニューも美味しいはずがない。
もり蕎麦は、シンプルな料理だけに、ごまかしが効かない。この蕎麦の出来映えに、蕎麦職人の腕は、隠しようもなく現れてしまう。そして、単純でいながら奥が深い蕎麦の醍醐味を最も楽しめるのが、もり蕎麦なのだ。