文・写真/杉﨑行恭

ブロッケンの妖怪という言葉を聞いたことがあるだろうか、ごくまれに霧の中に現れる虹のことだ。その気象現象の名になったブロッケン山はドイツ北部にある標高1142mの山だ。日本の感覚からいえばそれほどでもない標高だが、高緯度にあるため山頂は森林限界を超え、荒涼としたハイマツに覆われている。しかも北ドイツ平原を見下ろすハルツ山地の末端という地形から北海からの冷たい気流が起こす霧が多く、神秘の山として、また魔女の住む森として恐れられてきた。そう、ここはブロッケンの妖怪が出やすい山なのだ。その魔の山、ブロッケン山に登る蒸気機関車に乗った。

大森林を走って魔の山へ

東独製99形蒸気機関車

列車を運行するのはハルツ狭軌鉄道(HSB)という、起点駅のヴェルニゲローデは、後背地にハルツ山地を持つ中世からの城郭都市だ。山麓から望む山々も、重厚な森が盛り上がった巨大な丘といった感じだ。はるかに望む山頂に塔が見えた、ブロッケン山だ。あそこに向かって列車が走ると思うとわくわくする。ふと見れば街のカフェで数人の魔女がホウキを壁に立ててお茶を飲んでいた。ブロッケン山は魔女伝説の山。いきなり魔女姿の観光ボランティアに迎えられるとは縁起がいいのか悪いのか。

ヴェルニゲローデの魔女たち

ハルツ狭軌鉄道はヨーロッパの通常の線路幅より狭い軌間1000mmの鉄道だ。19世紀末からハルツ山地の資源開発を目的に建設され、1898年には最高峰ブロッケン山頂まで開通した。ちょうど今年で120年になる歴史的鉄道なのだ。しかし第二次大戦後は東ドイツに編入され、西ドイツを見おろすブロッケン山には巨大なレーダー基地が築かれてソ連軍も駐屯、立ち入りは厳しく制限された。そんな冷戦の象徴だったブロッケン山がふたたび開放されたのは東西ドイツ統一後の1991年のこと。当時を知る鉄道職員は「ものすごい数の地雷を掘り起こした」という。以来ハルツ山地の観光と交通を担う鉄道として、蒸気機関車を稼働させている。

ハルツ鉄道は大規模な保存鉄道

さて、列車に乗る前にヴェルニゲローデ駅の機関庫を見に行く。古めかしいクレーン車で石炭を機関車に搭載している最中。「石炭用のクレーンで動くのはこれだけだ」と機関士は話す。これから走る236号機関車も1950年代に東ドイツ国鉄(DR)が製造した99形Eタンク、動輪が5個もある勾配用機関車だ。ハルツ狭軌鉄道にはこのような東ドイツ時代の蒸気機関車が25両もあり、3か所の車庫に配置されている。車庫から引き出された蒸気機関車から煙がたちのぼり、炭塵で真っ黒になった線路や燃えた石炭の匂いがたちこめる。まぎれもなく懐かしい機関庫の風景だ。

ヴェルニゲローデの機関庫

これ1台になった石炭クレーン

ブロッケン行き列車はずらりと客車を連結して発車した。汽笛を鳴らしながら中世の町並みを残すヴェルニゲローデ市街をばく進する。それもつかの間、列車は森林地帯に突入。恐ろしいほどの急カーブが連続し、連結部分のデッキで見ていると前の客車が横腹を見せるほどぐいぐい曲がる。容赦なく機関車の煙が舞い込み、興奮した少年たちがドタバタと通り抜ける。揺れるわ、煙いわ、騒々しいわ、こりゃ相当に乱暴な乗り心地だ。でも隣の客車ではお父さんたちがビールを交わして陽気に歌い始めた。乗った列車にはビュッフェ車も連結し、ビールやソーセージを注文できるのだ。やがて標高540mのドライ・アンネ・ホーネ駅で小休止。喉が渇いた機関車へ給水作業が始まった。機関車は山頂までの往復で3トンの石炭と12トンの水を消費するという。

中世の街を走る

客車にはデッキがついている

父さんが酒盛り

ビュッフェも連結

さて、列車はドライ・アンネ・ホーネ駅からブロッケン支線に入って30パーミルの急勾配に挑み始めた。この数字は1kmで30mの標高差を意味する。蒸気機関車では限界に近い急勾配だ。最後の途中駅、シールケを過ぎるといよいよブロッケン山の山腹を約30分間ガタガタゴトゴトとひたすら登り続ける。昼なお暗いドイツトウヒ(マツの一種)の大森林が続き、魔女どころか、オオカミさえ出そうな雰囲気、さすがゲーテの戯曲「ファウスト」にも登場する魔の山だ。やがてその針葉樹林もまばらになり、ようやく森林限界を超える。視界が一気にひらけ、その先にいかついアンテナ群が見えてきた。列車はスピードを落としながら山を半周するように登り詰める。

ドライ・アンネ・ホーネ駅で給水

急勾配をひたすら登る

森林限界を超えた

ヴェルニゲローデ駅から約2時間、いまでは貴重な5動輪の99形蒸気機関車が891mの標高差を克服してやってきたブロッケン山。「ヴァルプルギスナハト」と呼ばれる4月30日の夜、魔女たちが集まるという伝説の山頂はただ風が吹き抜ける草原地帯だった。しかし北ドイツの最高峰だけに眼下には北海まで続くという空間がひろがり、ふり返れば東ドイツ時代の遺物という旧テレビ塔と重厚なレーダー施設があった。現在これらはホテルや博物館となっている。列車で知り合った乗客は途中駅のシールケまで約10kmをハイキングすると消えていった。さて、ブロッケン山頂駅には転車台がないので下りのけん引機関車はバック運転になる。ふたたび車窓から望む風景、乗務する美人車掌いわく「ここからウラル山脈まで山はない」という北ヨーロッパの大平原が実感できる絶景だった。

ブロッケン山頂の旧軍事施設

ブロッケン駅からの展望

美人車掌が機関車の付け替え

 【ハルツ狭軌鉄道(HSB)】

ハルツ山地に約140kmの路線網を持つ地方私鉄で、特にブロッケン山への蒸気機関車列車が人気。ヴェルニゲローデ発のブロッケン行は基本的に夏季8往復程度、10月28日から4月27日の冬期は3〜4往復運転。運賃は往復で43€。
HP:https://www.hsb-wr.de/startseite/

ハルツ鉄道路線図

文・写真/杉﨑行恭
乗り物ジャンルのフォトライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に活動。『百駅停車』(新潮社)『絶滅危惧駅舎』(二見書房)『異形のステーション』(交通新聞社)など駅関連の著作多数。

 

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