写真・文/石津祐介
キリスト教が禁教とされた時代、頑なに信仰を貫いた潜伏キリシタン。その信仰の痕跡と、明治の禁教令廃止後に建てられた教会堂を、長崎県の五島列島に訪ねた。
五島列島の北部に位置する小値賀(おぢか)町は、大小17の島からなる町である。今回はこの町の中心となる小値賀島と、文化財に指定されている「旧野首教会」のある野崎島を訪ねた。ちなみに旧野首教会は、先日ユネスコの世界遺産候補で登録審査が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する「野崎島の集落」に含まれている。
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小値賀島へ行くには、佐世保か博多からフェリーを利用することになり、そして野崎島へ行くには小値賀島から町営のフェリーを利用することになる。上五島に点在する教会堂巡礼と併せて訪ねるのであれば、佐世保に戻らずに新上五島町の北部、津和崎から海上タクシーを利用し、小値賀島や野崎島へ渡るルートがよい。
現在の野崎島は無人島で、江戸時代には平戸藩の領地であった。1700年代初頭の頃に野首地区の開拓が始まったとされ、1800年代になると大村藩より難を逃れた潜伏キリシタンが野首集落へ移り住むようになり、1840年頃には舟森集落へも移り住んだという。
信徒は表向きは海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装うことで、密かに信仰を続けた。時代は明治となり、島の信徒は信仰を表明するが江戸幕府から引続きキリスト教を禁教とした明治政府により平戸に連行され弾圧を受ける。やがて信仰の自由が許され、島に戻った信者は1881年に舟森に、1882年に野首にそれぞれ教会を建てた。
そして1908年には両集落、17戸の信徒が食事を切り詰めながら貯蓄した資金によって野首教会が建てられる。しかし近年になり過疎化が進み、1971年には最後の信者が島を離れ、教会は1986年には小値賀島町へ寄贈される。
その後教会は改修工事が行われ、2011年には「小値賀諸島の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定された。
海を一望できる丘にひっそりと建つ旧野首教会は、上五島で多くの教会堂を手がけた鉄川与助の設計・施工で、彼にとっては初めての煉瓦造りの聖堂であった。
屋根の中心に十字架、両端にはアイリスの紋章が掲げられている。
教会の内部はゴシック様式の特徴であるリブ・ヴォールト天井で、天井の曲面に沿って肋骨状の支持アーチ架ける構法である。
堂内は、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光と相まって、祈りの場を見ごとに作り上げている。
【旧野首教会】
長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷692-1
アクセス:野崎港より徒歩20分
旧野首教会の見学は、おじかアイランドツーリズムへの連絡が必要
http://ojikajima.jp/tourlism
教会内の撮影は原則禁止で、撮影には許可が必要
さて、野崎島への拠点となる小値賀島は古くは遣唐使船も寄港した島で、現在では日本の原風景が残る島として 「日本で最も美しい村」にも選ばれている。
もともと信徒のいない島であったが、1960年に野崎島の野首教会の巡回教会として小値賀教会が建てられた。1970年には過疎化による野崎島の信徒の集団移転で野首教会は閉鎖され、舟森教会の司祭館がこの教会に移築された。現在では島を離れた信徒の子孫たちによって、ひっそりと信仰が守りつがれている。
禁教下の時代、公に信仰を許されなかった信徒たちは「家御堂」と呼ばれる民家を祈りと場とし、信仰を支えた。この小値賀教会は、その家御堂を思い起こす質素で純粋な祈りの場であり、近代に建てられた教会とは一線を画すものである。
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以上、今回は小値賀町の中心となる小値賀島と、文化財に指定されている「旧野首教会」のある野崎島をご紹介した。
苦難を乗越えた潜伏キリシタンの信仰心が、果たしてどのようなものであったのか。これらの教会を巡ることで、その一端を感じられるのではないのだろうか。
次回は、チャーター船を利用し平戸へ渡り、教会堂や関連遺産、見所などを紹介する。
【小値賀教会】
長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷字段地2679-1
アクセス:小値賀港より徒歩20分
【小値賀島、野崎島へのアクセス】
小値賀島へは佐世保港から高速船で1時間半もしくはフェリーで3時間、博多港からフェリーで5時間半。野崎島へは小値賀島から町営フェリーで30分。
写真・文/石津祐介
ライター兼カメラマン。埼玉県飯能市で田舎暮らし中。航空機、野鳥、アウトドア、温泉などを中心に撮影、取材、
取材協力/平戸・小値賀・上五島観光ルート形成推進協議会
今回の取材は、同協議会が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録を見据え、普段は定期船で行くことが出来ない「平戸〜小値賀(野崎島)」間をチャーター船でつないで、平戸市・小値賀町、新上五島町に点在する構成資産を効率よく巡るツアーに基づき行いました。