文・写真/杉﨑行恭(フォトライター)
高崎駅から分岐する私鉄線、上信電鉄に乗った。電車は上州の平野を走り、世界遺産になって話題になった『富岡製糸場』がある上州富岡駅を過ぎると、しだいに山の中に入っていった。
そして最後のトンネルを抜けると、まわりに岩山が屹立する袋小路のような町が現れ、電車はゆっくりとその終着駅、下仁田駅に入っていった。
まさに山塊に突き当たって白旗を掲げるように線路が終わっているという感じの下仁田駅は、ホームの末端に駅舎がある「頭端式ホーム」で、建造年代も定かではないほど古い木造駅舎が残っていた。
この駅では、降車は屋外、乗車は駅舎からという昔ながらの『乗降分離』を行っている。昭和30年代までの国鉄や、日本統治時代の伝統が残る台湾のローカル線では、このような乗降分離が普通だった。
『ねぎとこんにゃくと人情の町』と書かれた看板に迎えられ、電車から屋外へと降りた乗客の大半が、また駅舎に戻っていく。聞けばみなさん「町営バスの時間待ち」とか。駅前は各方面に向かう下仁田町営バスのターミナルになっていた。
しばらくしてやってきたバスは、ただのワゴン車だ。それでも狭い駅前広場にはちょうどいいサイズだった。
ところで上電電鉄は、社名でもわかるとおり、上州と信州を結ぶことを目的として設立された鉄道だ。これがもし実現していたなら、信越線碓氷峠の南の内山峠に、もうひとつの鉄道ができることなり、日本の鉄道地図も大きく変わったことだろう。
沿線の富岡に官営製糸工場があることでもわかるとおり、絹糸の生産地である信州と上州は密接な関係にあったのだ。
しかし上信電鉄は、信州との県境、標高1066mの内山峠を越えることはできなかった。
下仁田駅の標高は254m。その下仁田駅から町営バスで富岡街道に沿ってたどると、下仁田ネギの産地である野牧の集落に至る。その付近から街道は鉄道の限界に近い急勾配になり、それから先は長大トンネルで突破するしかないほど急峻な絶壁が立ちはだかっていた。関東と信州を隔てる上信国境の峠は険しい。上信電鉄はこの壁を越えることができなかったのだ。
夕方、下仁田駅のまわりをぶらぶら歩く。鏑川の河岸段丘に発展した下仁田の町は、この駅を慕うように民家や商店が集まって、今となっては懐かしさにあふれる、駅と町の風景を形成している。
やがて下校してきた高校生たちが構内の踏切を次々に渡っていった。駅の奥を見やると、ニョキニョキとした不思議な山が連なっている。駅の周囲には、日本ジオパークにも認定される奇異な山々がぐるりと取り囲んでそそり立っている。
鉄道の役割はここでおしまい。下仁田駅はそんな“最果て”の終着駅だった。
【下仁田駅 (上信電鉄)】
■ホーム:1面2線
■所在地: 群馬県甘楽郡下仁田町
■駅開業:1897年(明治30年)9月8日
■アクセス:高崎駅から上信電鉄線で約1時間
文・写真/杉﨑行恭
乗り物ジャンルのフォトライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に活動。『百駅停車』(新潮社)『絶滅危惧駅舎』(二見書房)『異形のステーション』(交通新聞社)など駅関連の著作多数。