文・写真/新宅裕子(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
いまや日本国内でもイタリア産のサラミやチーズ、ワインなどは身近な存在になっている。淡いピンク色が綺麗な生ハムといえば、パルマやサン・ダニエーレという産地の名もよく知られるようになった。しかし今年1月、イタリアの豚から伝染病が見つかったことで、日本ではイタリアからの生ハム等の輸入停止が続いている(2022年秋現在)。
そんな豚肉の生ハムに対し知名度は劣るものの、イタリアには牛肉の生ハムも存在する。北イタリアはスイスとの国境近く、ヴァルテッリーナ地方周辺の特産品「ブレザオラ」である。起源については定かでないものの、15世紀にはすでに存在していたという記録が残っているほどの伝統食だ。
牛肉を塩漬けし熟成させたこの牛ハムは通常、赤身のモモの部分が使われるため、脂肪分が少ないのが特徴。そのまま食べると、ギュッと凝縮された肉の旨味やほのかな甘みが口に広がり、薄く切られていても食べ応え抜群だ。シンプルにパンと合わせても良いが、ルッコラと削ったパルミジャーノ・レジャーノチーズをかけて食べることも多く、このクセの強い3つの味が見事に調和する一皿となる。
このブレザオラ、なんと和牛で作る職人がいると聞き、ヴァルテッリーナ近郊にあるその工房を訪れることにした。ミラノから車で北に1時間、コモ湖沿いを進んでいくと、その北端に工房ブリスヴァルはある。目の前に広がる山々を越えればそこはスイス。湖と山に囲まれた地形が夏でも風通しの良いドライな気候を保ち、ブレザオラ作りに適しているらしい。
迎えてくれたのはこの道20年というシモーネさん。全て手作業にこだわる、れっきとした職人だ。
何種類もの牛肉を使ってそれぞれの特徴に合わせたブレザオラを作り、味わいの違いを楽しんでいる。昨今、イタリアではWAGYUなる牛肉も話題になっていることから、新たなチャレンジとして和牛ブレザオラに着手したそうだ。
早速ブレザオラ作りの工程を見せてもらった。
まずはシチリア産の塩にシナモンやジュニパーベリーなど計8種類のスパイスを混ぜ、適度な大きさに切った牛モモの塊に揉み込んでいく。
それをステンレスの大型容器に隙間がないよう敷き詰めながら重ねていき、ニンニクとローリエを加えて冷蔵室に15日間寝かせる。その際、肉の上下が入れ替わるよう、2日ごとに容器を移し替えなくてはならないのだという。
その後、9日間乾燥させ、さらに1か月以上の熟成期間を経てブレザオラに。周りにできた白カビは貴腐であり、内外の湿度を適切に保って正しい熟成を助ける役割を果たしている。
最もよく使われる牛肉はアンガス牛。スコットランド原産とはいえ、今では世界中で飼育されている品種だが、シモーネさんはアイルランド産とスペイン産などを使い分け、甘みやコクの違いを出す。たとえ同じアンガス牛でも育った環境によって肉質は変わる。その特性を生かせるのは、手で触った感覚を頼りに微調整を繰り返す職人ならではだ。
いわゆる“普通の”赤身ブレザオラの美味しさもさることながら、脂肪分たっぷりの和牛で作るブレザオラとはいかに。
外国産やイタリア産WAGYUもある中、シモーネさんの自慢は京都や鹿児島などから取り寄せたA5ランクの純日本産黒毛和牛のみを使っていること。しっかりと締まったきめ細やかな肉質が重要で、ウチヒラと呼ばれる和牛の中でも赤身が多く脂身の少なめの部位を選りすぐる。さすが、職人のワザとはより良い素材を吟味するところから始まっているのがよくわかる。
意外にも和牛だからといって作り方に大きな違いはないのだが、脂身が多い分、熟成期間に最低3か月要するそうだ。つまり、通常より2か月以上も長くなる。
味見させてもらう際、シモーネさんから「決して噛んではいけないよ」と忠告された。一瞬とまどっていると「自然にとろける感覚も味わって」とのこと。なるほど、舌の上で転がすようにいただくと、とろっとした脂身の食感と染みだす甘みが何とも言えない。もはや「ブレザオラ」という一括りでは表しがたいほど別物である。
防腐剤などの化学製品も一切使わず、日本から輸入した最高級の和牛を使っている和牛ブレザオラの価格は、いわゆる普通のものに比べて軽く一桁は違う。しかしながら、「真の価値がわかる人に食べてもらえればそれでいい」と職人気質で妥協はせず、今では星付きレストランなどを中心に取り扱いが広がっている。
日本から取り寄せた和牛がイタリアの空気と職人の手を経て、ブレザオラという形でいつか日本に帰る日が来るかもしれない。
文・写真/新宅裕子(イタリア在住ライター)
東京のテレビ局で報道記者を務めた経験を活かし、イタリア移住後も食やワイン、伝統文化、西洋美術等を取材及びコーディネート。ガイドブックにはないイタリアのあれこれや現地の暮らし、マンマ直伝レシピを紹介している。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。