日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他なりません。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。
名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解すること。名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。
歴史ある水を訪ね古都を歩きます。
誰しも憧れの歴史上の人物が、一人や二人はいるのではないでしょうか? その人物への憧憬のスタイルも、単なる憧れ程度のものから、その人物の生き様を手本とし「成り切る」ようなものまで様々です。「究極の憧れ」とも言えるレベルになりますと、考え方や行動を日常に取り入れる人もいらっしゃるとか?
徳川家康や豊臣秀吉のような、後に天下人と呼ばれた人物については、その人物の言動の一部を手本とする場合の方が多いものです。それは、一般庶民から見れば“雲の上の人”で、しょせん叶わぬ夢と諦めているからではないでしょうか?
しかし、身分に関わりなく、天下国家に影響を与えたり、大事を成し遂げ、名を残した人物へは親近感を持ちやすいもの。それ故、「その人物のように成りたい!」「近づきたい!」といった思いも強く、その人物からの影響も受けやすいのではないでしょうか。そうした歴史上の人物として、あなたは誰を思い浮かべるでしょう?
今回は、人気の剣豪・宮本武蔵にまつわる名水を、彼の誕生の地とされる場所へ訪ねてみました。小説の題材にもなり、数え切れないほどの映画やテレビドラマの主人公として描かれている宮本武蔵、きっと多くの人にとって「究極の憧れ」の象徴となっていることでしょう。
諸説ある出生の地の一つ、作州宮本村は武蔵一色の里
歴史上の人物の中でも、ファンの多い宮本武蔵。その生誕地については、諸説あることは広く知られています。先ずは、その点について触れておきます。「武蔵・誕生地」には、次の3つの説があります。高砂説(現・兵庫県高砂市米田町米田)、宮本説(現・兵庫県揖保郡太子町宮本)、作州説(現・岡山県美作市宮本)。
吉川英治によって昭和初期(1935-1939)に書き下ろされた小説『宮本武蔵』では、作州説が採用されました。そのことで、一般的には作州説が広く認知されることになったと思われます。その真偽について、歴史学者やファンの間では長く激論が戦わされてきたようですが、この記事では、その事は脇に置きまして、宮本武蔵のエピゾードが残る地へ、その足跡と名水を訪ねてみました。
ファンから宮本武蔵・聖地の一つとされ、観光施設も多い「作州宮本村」は岡山県の北東部に位置しています。主たる産業は農業と林業、まことに長閑な環境の地域。平成17年(2005)の市町村合併までは、英田郡大原町宮本でしたが現在は美作市宮本となっております。
今や、美作市の観光大使と言うべき存在の宮本武蔵。至る所に武蔵関連のモニュメントが見られます。まさに“武蔵・一色”といった感じの宮本地区、一番に目に入る象徴的な建物が「宮本武蔵顕彰武蔵武道館」。
印象的な外観は、何でも、宮本武蔵が作った刀の鍔(つば)「海鼠透鍔(なまこ・すかしつば)」をモチーフにしているとか。この武道館、剣道会場はもとより、屋内スポーツ競技やコンサートやコンベンションなど多目的に使用できる施設となっているようです。また、村内を通る智頭急行智頭線には、全国でも珍しい“氏名”そのものの「宮本武蔵駅」があり、多くの鉄道ファンも訪れるとのことです。
剣豪・宮本武蔵の魂が感じられるエリア
武蔵にまつわる逸話が残る遺跡、石碑や武蔵の銅像、資料館や武蔵道場などの施設は、生家の近くに集約されているようでした。その宮本武蔵生家の前には、次のような説明板が掲げられておりますのでご紹介しましょう。
宮本武蔵の生家は約60メートル四方のここ宮本の構にあり大きな茅葺の家であった。昭和17年(1942)に火災に遭い現在の瓦屋根となったが、大黒柱の位置は昔と変わらないと伝えられている。武蔵は天正12年(1584)に生まれ、父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。
こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術にたけており、13才の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以後諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で佐々木小次郎に勝つまで生涯に60余度の勝負をし一度も負けていない。
武蔵は剣の流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。また、書、絵、彫刻、工芸を好み禅の修行を重ね「枯れ木にもずの絵」等、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年5月(1645)熊本の千葉城にて62才でなくなり弓削の里に葬られた。(美作市)
生家の傍には「宮本武蔵生誕地」と刻まれた記念碑、「宮本武蔵」の作者・吉川英治文恩記念碑と「露しとしずく武蔵の道の果てもなく」という句碑が並び建っておりました。
とても残念だったのは、武蔵資料館が閉館中であったこと。同館は、宮本武蔵ゆかりの品を約150点も収蔵しており、開館していれば、その内約40~50点が展示公開されていたはずだったのですが、誠に無念な思いをしました。
宮本武蔵の生家跡から宮本川を挟んで隣に在るのが、讃甘(さのも)神社。幼年期の武蔵は、この神社の宮司が太鼓をうつ二本の撥捌きが、乱れのない左右の均等であることに感嘆。その記憶が、後年の二天一流の発想へと繋がったと伝わっています。 鳥居の造りが特殊で、その構えから歴史と由緒が感じられます。
孤高の剣豪・武蔵の魂を感じながら、壱貫清水を汲み取る
目的の武蔵ゆかり水「壱貫清水」を求め、案内標識にしたがい鎌坂峠(かまさかとうげ)へと向かいます。道幅の狭い舗装道路を、5分ほど歩くと「武蔵神社」の鳥居の前へ。この神社の謂れについては次のように説明板が設置されていました。
郷土の生んだ剣聖宮本武蔵を祀る神社として、昭和46年(1971)4月奉賛会がその趣旨に賛同された方々からの浄財によって、天王山の平田家の墓地の近くに建立した。
境内には武蔵の好んだ中唐の詩人白楽天の詩の一句「寒流帯月澄如月」が刻まれた戦気の碑があり、また、厳しい朝鍛夕錬の修業によって兵法を究めた武蔵が、その一生の自戒自誓の処世訓とした「独行道」を刻んだ碑もある。
ここ武蔵神社は後世にわたって、武蔵の徳を慕う人達の心の聖地である。(美作市)
この神社、比較的新しい社ではあるが武蔵とその家族の墓所のすぐ隣に鎮座しているということもあって、神妙で荘厳な空気が漂っている感じがしました。設置してある参拝者名簿を見ると、全国各地から熱心なファンが訪れていることが確認できました。
ところで、熊本で亡くなった武蔵の墓が、何故に作州宮本村にあるのか? という理由ですが……。武蔵の養子・伊織が武蔵の骨を分骨し、ここ作州宮本村にあった両親の墓の隣に埋葬したとのことです。小笠原藩において家老にまで出世をした宮本伊織は、後年「父と諸国を旅していた時が一番楽しかった」と語ったとの逸話が残っているそうです。
その武蔵神社から更に歩くこと約5分、目指す「壱貫清水」の前にたどり着きます。この清水の謂れついては、次のように説明がなされていました。
この清水は山陰山陽連絡の因幡街道の鎌坂峠の八合目あたりで年中変わらない冷たい水が湧いている。旅人が立ち寄り喉を潤し「ほんに一貫文の値打ちがある」(一両は四貫)と云って峠を越していったところから壱貫清水の名がある。参勤交代の鳥取藩主は、峠茶屋でこの清水を金の茶釜で沸かしたお茶で休息をとり峠を越していった。
また武蔵も、ふる里を後にする時、竹馬の友、森岩彦兵衛と別れを惜しんで飲んだのもこの壱貫清水である。(美作市)
この説明からすると、剣豪・武蔵伝説との深い因果関係があるようには思えず、少し残念な気もいたしました。しかし、山深い作州宮本村を後に大志を胸に、大坂、京都、江戸を目指して旅立った若き武蔵の姿を重ねると、感慨深いものがありました。
武蔵の里を後にするに際して、武蔵の祖父と父が家老職を務め、剣道師範役として仕えたとされる竹山城跡へ立ってみることにしました。竹山城は『太平記』にも登場する中世後期の山城。城跡は展望台となっており、武蔵の里を一望することができました。
中国山地の山並みと、眼下に見える武蔵の里の風景を見ていると、ちょっぴりですが作州宮本村を後にする武蔵の気分を味わえた感じがしました。
歴史上の人物にまつわる地を訪ねてみるのも、旅の楽しみ方の一つであることを実感いたしました。
所在地・アクセス
□ 壱貫清水
住 所:〒707-0415 岡山県美作市宮本
鉄 道:智頭急行宮本武蔵駅から徒歩約20分ほど
自動車:鳥取自動車道大原ICから約5分ほど
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/小菅きらら
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook