結婚した女性が退職するのは「常識」という時代
結婚相手は、上司が紹介してくれた。結婚せずに生きる選択肢はなかった。
「あの頃は、会社が何もかも面倒を見てくれたんです。休みの日に上司の家に呼ばれ、“これは誰か紹介されるな”と思いながら行くと、上司から“俺が前にいた部署の若手のホープだ”と2歳年上の主人を紹介してくれました。好みでもないけれど、悪くもない。断るのも面倒なので、結婚しました」
夫の実家は長野県の農家で、夫は三男坊だという。すぐに結婚が決まり、退職する。
「働き続ければ、誰にも頼らずに生きられると思っていたのですが、女性は結婚したら退職するのが当時の常識。また夫は大卒だったから、海外勤務の可能性もある。上司としては、“しっかり者”と評判だった私を目付け役にして、内助の功を狙ったんでしょうね」
27歳で長男を、30歳で長女を出産し、子育てと家事に追われた。東南アジアの海外勤務にも帯同し、夫の仕事と家庭を支えたという。
「昭和50年代当時、今よりも海外は遠かった。日本のものが全く手に入らないんですよ。現地の日本人の奥様会の方から納豆菌を分けていただいて自作したこともありました。私たちの居住地区から出ると、本当に貧しくて、みんな必死で働いていた。それはかつての私の姿と重なります。奥様の中には上から目線で“かわいそう”という人もいましたが、それを私は傲慢だと思っていた。そんなことを思っていたから、日本人コミュニティに馴染めず、2年で帰国になったときは、ホッとしました」
子供達が中学校に入ってから、広子さんは大手ファミレスチェーンのアルバイトとして働き始める。20年以上働き、その間、何度も表彰された。退職のときは大きな花束をもらったという。
「貧しい生い立ちだから、お金がいくらあっても不安なんです。とにかくお金がなくなるのが怖い。働くことに対して、主人は私の時代の男としては珍しく“好きにしなさい”と言ってくれました。家事は一切しないけれど、やりたいことを反対しなかったから、いい主人です」
夫は退職後にはゆとりある生活を続けていたが、2年前に死去。
「75歳のときに大腸がんが見つかって、手術をしたり抗がん剤治療を続けていたのですが、再発を繰り返して亡くなりました。亡くなる前に、お医者さんの許可を得て、2時間だけ自宅に連れて帰ったんです。すごく嬉しそうな顔をして、私に“ありがとう”って。私もすべきことをやったので後悔はありません」
とはいえ、夫が亡くなってから、広子さんのメンタルは調子が悪くなったという。
「末の弟の仕送りが終わったときの、燃え尽き症候群のようになってしまったんです。やらなくちゃいけないことがあるのに、体が動かない。主人が亡くなったことに伴う、自宅の名義変更、車の処分、携帯電話やサブスク、クレジットカードの解約、証券会社や銀行の届け出などは、すべて娘がやってくれました。あれは本当にありがたかった。娘は仕事を続けており、問題の洗い出しが上手い。主人がこっそり入っていた、エッチな動画サービスまで探して、そこも解約していましたからね」
【死ぬのは怖くないけれど、腐敗してしまうのが怖い……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
