
「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。
一人暮らし世帯の拡大が社会問題になっている。国立社会保障・人口問題研究所の最新情報によると、一人暮らしをする65歳以上の高齢世帯の割合は増加の一途を辿り、2050年に32道府県で20%を超える見通しだ。これは、地方ではなく大都市圏で大きく増えるという。医療や介護の問題は、現役世代を圧迫し続けるだろう。
東京都内で一人暮らしをしている広子さん(79歳)は「娘が主人の仕事の手続き全般を、息子が見守りサービスを入れてくれたことを、ありがたく思っている」という。
働かなければ生きられない時代だった
広子さんは、戦争が終わった翌年の1946(昭和21)年に東北地方で生まれ、中学卒業後に集団就職で上京した。
「昔、“貧乏人の子だくさん”と言ったように、私のきょうだいは7人もいた。家は小さな農家でしたが、とにかく貧しかった。私は次女で、母がいつもお腹を大きくして働いている姿を見て育ちました。食べるものにも困っているくらいだから、中学校を出たら、とにかく働きたかった」
農家は作物をお金に変えて生活する。家に現金が入るのは、米を収穫し農協に納めたときだけ。収穫前の夏には家のお金は尽きており、給食費や学級費を学校に持って行けなかった。
「お金がないということが恥ずかしかった。両親もそういう思いを子供にさせていて、申し訳ないという顔をしていた。父ちゃんは別の仕事で身を立てる方法を考えたようですが、先祖代々農家をやってきたのですから、別の仕事はできないでしょ。当時は車も電車もないので、勤めに行くこともできないですしね」
広子さんは、上に長男と長女がいる、次女で3人目の子供だ。
「兄と姉は家に縛られていたけれど、私のことは親も構っていなかった。幼い頃から、中学校を卒業したら家を出ようと思っていたんです。先生にも“お給料がいっぱいもらえるところにお勤めできるようにしてください”と伝え、勉強も頑張りました。当時、お金のことを言うのははしたないことだとされていたので、先生もギョッとしていたことを覚えています」
当時、集団就職は本人の適性や希望などを無視して、就職先が決められることが多かったという。働かなくては生きていけず、働く場所があるだけありがたい時代だったのだ。
広子さんは先生に希望を伝え続けたこともあり、大手の紡績工場に勤務。1円でも多く実家に仕送りするために、仕事に邁進する。
「寮と工場の往復に加えて、夜間高校での勉強もしていたので、20歳くらいまでの記憶がないんです。仕送りは自分の中で“下の弟が中学校を出るまで”と決めていました。それが終わると燃え尽き症候群のようになってしまったんです」
上司に相談すると、功労を認められたのか、事務職へと異動になったという。
「両親も体を動かして仕事をするし、工場の仕事も立ちっぱなしでしょ。初めて“座って仕事をする”ことを体験したのです。仕事内容は伝票整理でしたが、なんて楽な世界なんだと感動しました。お給料も工場よりは高い。簿記の資格もとり、25歳で結婚するまで働きました」
【働き続ければ、頼らずに生きられる…次のページに続きます】
